カナメスタジオ
自作小説書いたり同人誌出したりするところ。

第一話 謀反と出奔

 湿気が多く、歩いているだけで汗が噴き出るような夜だった。山の中だというのに、涼しさは少しも感じられない。風でも吹けば少しはましになるだろうが、今夜は自然の風が無い夜だった。
  三つの人影が、一列になって歩いていた。夜の山道で灯りも持たず、しかし危なげなく進んでいる。
  ふと、一番前を歩いていたナクリトが足を止めた。歳の頃なら十七か八。普通の男より少しばかり背が高く、その身体はよく鍛えられている。猟師が好むような動きやすい服装をしているが、きちんと整えられた髪は猟師のそれではなかった。
  月明かりさえわずかにしか届かない夜の山の中、ナクリトは虚空を見つめた姿勢のまま、何かを考えている時の顔をしている。
  ナクリトの後ろを歩いていたジンは、急に立ち止まったナクリトの邪魔にならないよう、黙ったままでしばらく待った。ジンはナクリトとは対照的に、小柄で細い身体をしている。だが、その身体から受ける印象は弱々しいというものではなく、よく引き締まっているというものだった。
  時折女性に間違われるほど美しい顔立ちをしており、まだ十五、六歳にしか見えないが、実際はナクリトよりも年長だ。
「ぁ……ふ」
  ジンの後ろ、最後尾では、マキリが小さくあくびを漏らしていた。
  ジンはナクリトの邪魔をしないように待ったが、ナクリトが歩き出す様子は無い。
  仕方が無い。
  ジンは唇を尖らせながら、ほんの少しだけ不満の色を込めた声で言った。
「若様、急ぎましょう。夜が明ける前に城に戻っていただかないと、私が叱られてしまうのですよ?」
「急かすなって、わかってる。……ただ、何か妙な感覚がしたんだ」
  虚空を見つめたままでナクリトが答えた。
  冗談を言っている雰囲気ではなく、かといって、いつものように何かを煙に巻こうとしているわけでもない。それはジンにもわかったが、周囲にはナクリト達以外に動物の気配は感じられなかった。
「今のところ、何の気配もありませんよ。獲物も居なければ、何かに狙われているという事も無いと思います」
「そうか?マキリはどうだ?何も感じなかったか?」
「わかんない。でも、兄様の言うとおり、近くに動物の気配は無いよ」
  首を横に振りながら、マキリは答えた。まだ幼さが残るが、ジンとよく似た顔立ちをしており、身体つきも似ている。ジンよりも身長は低いが、この歳の女性としては少し高めだろう。
「……そっか。お前達がそう言うんなら、俺の勘違いだな」
  ナクリトは頭を掻きながらそう言うと、城に向かって歩き始めた。その歩みは素早く、暗い山道にも関わらず少しも危なげが無い。
  ナクリト達は雨の降らない夜は大抵こうして出歩いている。目的は今夜のように狩りであったり、領内の村々で行われている祭りであったりと様々だ。
  本来はこの国の跡継ぎであるナクリトが、たいした護衛もつけずに夜中に出歩くなど考えがたい事ではあるが、この事を知っているのは城の中でもごく少数の者だけだった。
  中でもナクリトの父であり城の主でもあるムカルトが、「好きにさせておけ」と言うものだから、基本的には見て見ぬふりをされている。ただ、そのぶんジンに対しては、「くれぐれも、若様に万一のことがないよう、お護りするのだぞ」という声がかけられることになってしまった。
  その事に不満があるわけではない。
  ナクリトが生まれる前から、ジンはナクリトの側仕えとして期待されてきた。それはジンが引く血筋のためであり、ジンも側仕えとしてナクリトを補佐するのは当然の事だと考えている。
  だが、ここ数年でナクリトの体格は立派に育った。一方のジンは女に身間違えられるほどに細い体つきをしている。こうして城外を出歩いている以上、ジンにはナクリトの護衛としての役割を果たすべきだという考えがあるのだが、傍目には頼りなく見られているのかもしれなかった。
「なぁ、ジン。やっぱり何か、変な感じだ。本当に何も感じないか?」
  前を歩きながら首だけで振り返り、ナクリトが言った。
  ナクリトが念を押すのは珍しい。
  ジンは後ろをついてくるマキリを見たが、マキリは首を軽く横に振って応えるだけだった。
  やはり、周囲に何者かが潜んでいるという事は無さそうだ。風も無い山の中、ジンとマキリの二人が同時に周囲の気配を読み違えるとは、思えない。
「やはり、我々は何も感じません」
「いや、違う。気配というよりは、何かが起きる前の予感のようなものだ」
  そう言いながら、ナクリトは徐々に歩く速度を速めていた。ジンとマキリも小走りになってついていく。小走りになった分だけ、ジンの心には焦りの感情が生まれていた。
  ナクリトの予感は、当たる。
  幼少の頃からナクリトの側に仕えてきたジンは、経験からそれを知っていた。
  もちろん何も起こらない場合もあり、その予感は能力と言えるほど確実なものではなかったが、完全に無視できるものでもない。
  ジンは緊張の度合いを高めながら、ナクリトの背中を追った。
「とにかく、急ぐぞ。面白い事だといいな」
  ナクリトの声には、弾むような響きがある。この状況を楽しんでいるようだ。
  ジンの位置からは見えないが、今、ナクリトの口元には笑みがあるはずだ。その笑みを想像するだけで、ジンは先程の緊張が解けていくのを感じた。
「では、急ぎましょうか」
  ジンのその言葉が終わらないうちに、ナクリト達の背後からは風が吹き始めていた。追い風に乗って、三人は城へと急いだ。

 城に近づくにつれ、ナクリトの予感が三人の中で確信に近づいていった。何かが起きてはいる。ただしそれが「面白い事」なのか、どうか。
  最初に異変に気付いたのは、マキリだった。
「若様、兄様、ちょっと待って」
  最後尾をついてきていたマキリが、不安げに声を上げた。
  ジンとナクリトはすぐに立ち止まり、振り返る。マキリは虚空を見ながら、周囲へと意識を集中させているようだった。
「どうした、疲れたか」
「ううん、平気。ただ、変なの。さっきから、獣の声も虫の声もしない」
「……確かに、静かすぎる気がします。蛙の声も聞こえない」
  マキリに言われるまで気付かなかったが、今夜はやけに静かだ。
  この時期の夜であれば、水田には大量の蛙が居て、一日中鳴いている。また、山の中であっても虫の声が聞こえるはずだ。
「若様。既に何かが起きている、と考えて動いたほうが良いかもしれません」
  獣たちの声が聞こえない程度の事で、神経質になりすぎているかもしれない。だが、ジンとしては、軽率に行動してナクリトの身を危険に晒すわけにもいかない。慎重に行動した結果、何事も起きなければそれでいいのだ。
  ジンの言葉に頷いたナクリトはすぐに決断を下し、マキリに指示を出した。
「マキリ。先に行って、城の様子を見てきてくれ。俺とジンは後から行く」
「うん、わかった。でも、何もなかったら?」
「そのときも、戻って来い。お前の無事を確かめるまでは、安心できん」
  ナクリトは時折、真顔でこういう事を言う。ジンにとっては慣れたものだが、マキリは照れたように微笑んで見せた。
「わかった。じゃあ、兄様。若様をお願いね」
  ジンは無言で頷いた。マキリはそれを見届けると、あっという間に夜の闇の中に消えていっく。
「よし、ジン。俺たちも急ぐぞ」
「はい」
  ここから城までは、もうそれほどの距離も無い。マキリであれば、
  ジンはナクリトの背を追いながら、考えた。
  何かが起きている。ナクリトはそれを確信しているように見えるし、ジン自身も今はそんな気がしている。なにより、今夜のナクリトは慎重に行動している。いつもは大雑把なナクリトだが、こういう時に見せる慎重さは真剣さの表れだ。
  今、起きているであろう何かが、ナクリトの身に危険の及ぶようなものであるかはわからない。ただ、マキリが偵察に出て居ない今、最悪の場合は自分ひとりでナクリトを護らなければならない。
  前を行くナクリトと、周囲の気配。その両方に気を配りながら、ジンは腰に提げた短刀がいつでも抜ける状態である事を確認した。

 程なくして山道が終わり、平野と森の境界に出た。
  ここは通い慣れた道で、昼間であれば城を遠望できる場所であったが、夜の闇の中ではその輪郭だけが確認できる、はずだった。
「若様、あれは……」
「ああ、さすがにあれは俺にも見えるぜ」
  城が、明るい。
  はっきりとはわからないが、城のどこかが燃えているらしい。とはいえ、大きく燃え上がっているわけでもなさそうだった。燃えているのは本城そのものではなく、平屋敷か倉が出火元だろう。火が上がっているのは一箇所だけのようだから、外敵に攻め込まれているというわけでもないはずだ。
「あの程度なら、消し止められそうだな」
「そうですね。今夜は風がありません。燃え広がる事は無いでしょう」
  ナクリトの言うとおり、あの程度の火であれば詰め番をしている兵たちだけで消し止められるはずだ。幸い、空気も湿り気を多く含んでおり、適切に対応すれば大事には至らないだろう。
  ナクリトの予感という、得体の知れなかった何かが目に見える形で目前に現れ、ジンはほっと胸を撫で下ろした。
  とはいえ、ここでじっとしているわけにもいかない。火事そのものは大事にはならないだろうが、それでもナクリトの安否確認はなされるはずだった。
「さぁ、有事の際に若様がご不在とあれば、城の者に要らぬ心配をかけてしまいます。やはり、急ぎ帰りましょう」
  今頃は、ナクリト達が居ない事に、城の者たちも気付いているかもしれない。だが、夜が明けるまでに城に戻れば、どうにでも誤魔化すことはできる。この場所からであれば急がずとも夜明け前には帰ることができるが、早く帰った方が面倒が少ない事は確実だ。
  しかし、ジンの言葉に、ナクリトは首を横に振って答えた。
「いや、マキリが戻ってきていない。何かおかしいぞ」
  確かに、その通りだった。
  城で火事があったことは、この場所からもわかる。マキリはナクリト達よりも先にこの道を通っているはずだが、城の火を目にしたのなら、すぐに引き返して報告に来てもいいはずだった。ナクリトがどの道を使って城に帰るかはマキリも知っているはずだから、行き違いになったとも考えにくい。
  ただ、あるいは火事の詳しい状況を確かめに行っただけなのかもしれない。
  この場所まで来れば、火事があったという事だけならすぐにわかる。その事だけを報告するよりは、火事の詳しい状況を報告しようとマキリが考えたとしても、不思議ではない。
「では、少しだけここでマキリを待ちますか」
「そうだな。城の者には心配させておけばいいさ」
  ナクリトはそう言いながら、近くにあった木の根の上に腰を下ろした。
  心配させておけばいい、とは、いかにもナクリトらしい言い方だ。ジンは苦笑しながらも、ナクリトに倣って手近な木の根に腰を下ろした。
「なぁ、ジン」
「なんですか?」
「あの城が落ちたら、お前はどうする?」
  退屈を紛らわすためか、城の方を見ながら、ナクリトが言った。
  真剣に訊いている、という雰囲気ではない。ただぼんやりと、その事を疑問に思ったからジンに訊ねた、という所だろう。
「さて、どうしましょうかね。とりあえずは、若様についていくでしょうが」
  多少おどけた口調で答えたが、これがジンの本心でもある。城はあくまでも城で、大切なのは城で護っている中身だろう。
  ナクリトは少しの間黙っていたが、またポツリと、口を開いた。
「俺が、死んでいたら?」
「そのときは、私も死んでいるでしょう」
  自分の役割はナクリトを護ることだ。ナクリトが死んでいるのなら、自分はそれよりも前に死んでいなければならない。
  そう考えての、ジンの答えだった。
「……なるほどな」
  受け答えに満足したのか、飽きたのか。
  ナクリトはそう呟くと、大きなあくびをして目を閉じた。
「少し寝る。必要があれば、起こしてくれ」
「わかりました」
  ジンはナクリトに比べ、あまり睡眠を必要としない。これはマキリも同じだった。
  木の幹にもたれかかるようにして眠り始めたナクリトから、寝息が聞こえ始める。
  ナクリトの寝顔からジンが視線を移した先では、城がまだ、燃えていた。

 しばらくして、城の方からマキリが戻ってくるのが見えた。どうやら走っているらしく、動きが激しい。
  マキリの方でもこちらを見つけたらしく、二、三度大きく手を振って合図を送ってきた。ジンもそれに応えるように、立ち上がって腕を上げて見せる。
  城では少し前に火が消し止められたようだった。この場所からは、今は普段どおりの輪郭だけが見えている。
「来たか」
  いつの間に目を覚ましたのか、そう言いながらナクリトも立ち上がった。
「若様!大変!」
  叫ぶようにそう言いながら、マキリは全速でナクリトの胸に飛び込んだ。
  ナクリトに縋りつくようにして、マキリが声を上げる。切迫したその声から、ジンはただ事ではない何かが城で起きたのだと理解した。
「どうした!城で何があった!」
「まず、落ち着け。そして、大切なことから話せ」
  ナクリトは右手でジンを制し、左手でマキリの肩をつかみながら、幼子に諭すようにゆっくりと言った。
  マキリは一呼吸の間を置き、言葉を選んで話し始めた。
「ムカルト様が」
「親父が?」
「き、斬られた、って……」
  ムカルトが、斬られた。ジンはほんの一瞬、言葉の意味を理解できなかった。
「まさか……」
「本当か?どうやってそれを知った?」
  呆然と呟くことしかできないジンに比べ、ナクリトは落ち着いたものだった。マキリの肩をつかみ、しっかりとその目を見据えて訊ねている。
「わかんない……。ただ、城の近くまで行ったら、聞こえたの。ムカルト様が斬られた、って……」
「死んだのか?」
「わかんない……」
「誰がやった?」
「それも……」
  ようやく落ち着いてきたのか、マキリは静かに泣き始めた。ナクリトはマキリの肩から手を放し、代わりに頭を抱いてやっている。
  気付けば、ナクリトがジンの目を見つめていた。不安げな表情はそこに無く、いつも通り意志の強そうな顔と、力の込められた瞳。その瞳がジンに命じていた。
  考えろ、と。
  ジンはようやく動き始めた頭を必死に使い、取り得る次善の策を考えた。
  今起きている事が正確にはわからない以上、城に近づくのはまずい。まずはこの場所から離れることが、最も優先すべき事だった。
「若様、ここは一旦、この場を離れましょう」
「そうだな。夜明けまでに、行ける所まで行くぞ」
「南を目指すのがよろしいかと」
「……ホウテンカの所か。それでいい」
  取り越し苦労であればいい。しかし今は、ムカルトが死亡している場合を想定して動くべきだろう。であれば、何者かに一時的な庇護を求める必要がある。
  ホウテンカはこの国でも屈指の有力豪族だ。ムカルトとも結びつきが強く、ナクリトとも親しい。それに、ジンやマキリとも少なからず面識がある。このようなときに、必ず力になってくれると信じられる男だった。
  泣き止まないマキリを優しく促しながら、ジンとナクリトは南へと歩き始めた。

 日暮れを待ち、山の中を歩く。日の出前には身を隠し、日中は交代で眠った。
  ジンとマキリはともかく、ナクリトの顔はそれなりに知られている。そのため、城方はもちろん、一般人からも隠れて行動する必要があった。ナクリト達が南へ向かって移動しているという情報が知られれば、どんな不都合が起きるかわからないからだ。
  そうやって数日を過ごす途中、ジンは情報を得るために何度かマキリを里に行かせていた。
  一度目では、城で火事が起きたらしい、という事だけが噂として語られていた。そのときマキリが行ったのはまだ城からも近い村であり、夜中に城の火の明かりを直接見たものが居たようだ。
  二度目にマキリが下りた村からは、山が邪魔をして城を見る事はできない。だが、城で火事が起きたのだという噂は伝わってきているようだった。
  このときまで、ムカルトが斬られたという噂は全く広まっていない。
  マキリが城で聞いたという、ムカルト様が斬られた、という声が何かの間違いだったのか。
  あるいは単に、マキリの聞き間違いだったのか。
  そうであればいいと、ジンは思っていた。
  マキリの事を信用していないわけではないが、ムカルトが斬られたというのは、やはり信じたくないことではあった。
  だが、城を出てから数日目の昼下がり。
  夜明けごろから里に下りていたマキリが持ち帰った情報は、ジンが甘い考えを捨て去るための充分な理由になった。
「まずいですね」
「完全に、してやられたな」
  頭痛に耐えているような顔のジンに比べ、ナクリトはどこか他人事のようにそう言った。
  ここ数日の息を殺しての移動は、普通の人間であるナクリトには辛いもののはずだった。にもかかわらず、ナクリトが消耗している様子は無かった。
  マキリが話した内容をまとめると、こうだ。
  ムカルトが何者かに斬られた。そして、ナクリトが姿を消している。この二つの情報が、噂の形ではあるものの、一気に、確実に広まっている。
「してやられた、って、誰に?」
「わからん。が、とりあえず親父を斬った奴と同じか、その仲間だろうな」
  ナクリトはそう言いながら仰向けに寝転び、目を閉じた。ナクリトの言葉の意味を充分に理解できなかったのだろう、マキリは困ったような視線をジンへと向けてきた。
「つまり、二つの噂が同時に広まっているのが、不自然なんだ」
  ムカルトが斬られた事が事実であれば、それが噂になるのはある意味当然と言える。在位の領王が斬られるなど、普通は考えられない事だからだ。
  領王が何者であるかは、領民の生活にも少なからず影響を与える。自然、領民の関心も高くなる。
  だが、それに比べると、ナクリトが姿を消している事に対してこれほど領民の関心が集まるのは不自然だった。
「誰かが意図的に流しているのでもない限り、この二つの話が同じように噂として語られる事は無いはずなんだ。普通は、ムカルト様が斬られた、という噂の衝撃が強すぎて、若様のご不在の噂はかき消されてしまう。しかし今回はそうなっていない」
「そっか、なるほど」
  マキリは何度か頷きながら、ジンの説明を自分なりに咀嚼しているようだ。
「それだけじゃない。城の者ば、普通は若様のご不在を、何としても隠し通すはずだ。けれど、今回はいとも簡単に漏れている。これも、おかしい」
  たとえムカルトが死亡していても、嫡男であるナクリトが居れば国そのものが揺らぐことはない。ムカルトの血を継ぐ男子はナクリトだけであり、ナクリトの母であった女は既に他界している。跡目争いが起きる余地は無いのだ。
  だが、ムカルトの跡を継ぐはずのナクリトが居ないとなれば、話は別だ。
  次期領王が正式に決定するまでには、どうしても余計な時間がかかってしまう。そしてその時間のぶんだけ、王の不在が続くこととなる。
  国をまとめ上げる王が不在というのは、近隣諸国にとってみれば、この国に勢力を伸ばすための絶好の機会だ。だからこそ、今回のように城の者がナクリトの不在を簡単に漏らしてしまうというのは、どうにも考えにくい事なのだ。
「ええっと、だから……、誰かがわざと、噂を流してる、ってことだよね?」
「そう考えて、間違いないだろう」
  ジンはなるべく冷静に、しかしきっぱりと言い切った。
「誰が、なんで?」
「可能性はいくつか考えられる。ただ、どんな場合にせよ、若様の立場は危うくなる」
  まず考えられるのは、ナクリトも死亡した事にして何者かが新しい王になろうとしている場合。この場合、相手は王になるために邪魔なナクリトを殺害する必要があるため、すでに追っ手がかかっている可能性がある。
  あるいは、ムカルトを斬ったのがナクリトだと印象付け、豪族や民衆にナクリトを狩らせようとしている場合。父に反抗する息子が勢いで父を斬ってしまい、そのまま逃げ出すというのは、ありえる話ではある。
「じゃあ……、どうするの?これから」
  不安からというよりは、単なる疑問から出た言葉だろう。マキリは寝転んだままのナクリトに問いかけた。
「さて、な。とりあえず俺は寝る。疲れてんだろ、マキリも寝ろ。ジン、見張りを頼む」
「わかりました」
  目を閉じたままで言い切って、ナクリトはそれっきり黙ってしまった。
  マキリは困ったような顔をしてジンを見たが、ジンは何事も無いように、寝なさい、とだけ促した。マキリには、もう少し働いてもらう必要がありそうだ。休める時には休ませてやりたい。
  マキリはジンの言葉に小さく頷いて、ナクリトに寄り添うような形で横になった。
「おやすみ、兄様」
「ああ、おやすみ」

 ジンはこの事件を起こしている犯人に、目星がついていた。あえて口には出さなかったが、ナクリトもその事に気付いているだろう。
  領王ムカルトの宰相、リュウエン。
  ムカルトの従弟であるが、血筋ではなく実力で宰相の地位についた男である。歳はまだ若いが、その若さを侮る者は居ない。
  ジンは今のところ、この男が最も怪しいと思っていた。
  ナクリトが不在の今、次善の策として王を選ぶのなら、おそらくこの男が選ばれる。謀反を起こしてまで領王になろうとするような野心家には見えなかったが、有能な男であれば従順な演技などいくらでもできる。
  別の者が犯人である可能性、つまりリュウエンが今もムカルトの宰相としての立場である可能性も考えてみるのだが、その場合はリュウエン自身がナクリト不在の事実を外には漏らさないはずだ。その程度のことが、リュウエンほどの者にできないはずはない。
  やはり、リュウエンは直接の首謀者ではないとしても、この件を引き起こした者とかなり深い繋がりがあるはずだ。
  ナクリト達が目を覚ますまでの間、ジンは今後の事について、静かに思いを巡らせた。
  ホウテンカの屋敷に急がなければならない。
  この状況だけは、変わっていない。今回の件がリュウエンの謀反であるなら、ナクリトの命は今、確実に狙われている。ホウテンカによる庇護が、まずは必要だった。

 日が暮れてしばらくしてから、ナクリト達は移動を始めた。
  移動の間、ナクリトはずっと、何かを考えているようだった。
  真剣に何かを考えているとき、ナクリトは無口になる。出発する前に最低限の会話は交わしたが、その後は無言で夜の山を歩いた。
  ナクリトの背中を追いながら、ジンはなるべく口を出さないように気をつけていた。マキリもそのことは理解しているのだろう、いつも通り列の最後尾を、大人しくついてきている。そのマキリが小さく声を上げたのは、夜も半ばを過ぎた頃だった。
「兄様」
「……わかっている」
  距離は遠いが、何者かに囲まれている。ジンとマキリが、囲まれるまで気付かなかった。城からの追っ手にしては、気配の消し方が上手すぎる。ナクリトも異変に気付いたのか、立ち止まって周囲を警戒していた。
「若様、囲まれています」
「みたいだな」
  相手の目的がわからない以上、うかつには動けない。ジンはマキリと共にナクリトの左右に立ち、ナクリトを護る態勢を整えた。
  最初に現れたのは、長身で筋肉質の男だった。猟師が着るような服装をしているが、背中には柄の長い斧を背負っている。ナクリト達の前方から悠々と近づいて、声が届く程度の距離で止まった。
「ナクリトだな?」
  単なる確認、といった口調で、男が口を開いた。
  男の問いかけに、無言のナクリト。
  男に続くようにして、ナクリト達を囲むように幾人かの男たちが闇の中、木々の間から近づいてきた。
  男たちの服装はまちまちだが、みな動きやすく工夫されたものだった。腰や背中に、刀を差している者が多い。
「答えなくてもいい。ただ、できればおとなしく俺達についてきちゃくんねぇか」
  ナクリトの無言を、肯定の意味に受け取ったのだろう。最初に話しかけてきた長身の男が言葉を重ねた。この男が、男たちの首領格らしい。
「抵抗する、ってぇんなら、殺して身ぐるみ剥ぐだけだ。……さぁ、どうする?」
  盗賊か。
  今のナクリト達と同様、夜の闇に紛れて活動する者たち。
  首領格の男の口ぶりからすると、この男たちは城方に雇われてナクリトを殺しにきたわけではなさそうだ。
  大方、男たちの縄張りに入り込んだナクリト達を誰かが見つけ、そして誰かがナクリト失踪の噂を耳にしていたのだろう。
  ナクリトを生かして捕らえれば、どこかの豪族から身代金を取ることもできる。城方が直接ナクリトを探す場合も同様だ。そして男が言う通り、殺して身ぐるみを剥ぐだけでも、そう悪い稼ぎではないのだろう。
  男たちは首領格の男も合わせて、全部で九人。この暗闇の中、弓などで狙われていることは無いだろうから、絶望するほどの数ではない。
  ナクリトは少しの間無言だったが、やがて唐突に口を開いた。
「ジン、マキリ。やれ。ただし、なるべく殺すな」
「承知いたしました」
「うん、わかった」
  ナクリトの声は、何人かの男たちの耳にも届いたのだろう。ジンは周囲に殺気が満ちるのを感じた。
「残念だぜ」
  ポツリと呟いて、首領格の男が背中の斧を構えた。囲んでいた男たちも、それぞれ得物を手にしている。男たちはそれなりに戦闘の経験があるらしく、動きは落ち着いたものだった。
「兄様、わたし、行くね」
  マキリはそう言うと、跳ぶようにして近くの木に登り、姿を消した。三人で固まっていても、男たちに追い詰められるだけだ。マキリは男たちの囲みの外から、一人ずつ倒していくつもりのようだ。
  ナクリトは道を切り開くのに使っていた鉈を無造作に構えている。片手で自在に振り回せるように改良した、ナクリト愛用の鉈だ。
  ジンはナクリトの横に立ち、ナクリトとは逆の方向を向いた。背中を預ける形だ。この状況では、ナクリトにも戦ってもらうしかない。
  ジンが抜いた得物は両刃の短刀だった。斬りつけるというよりは、突き刺して使う武器で、手加減がしにくい。ナクリトがなるべく殺すなと言う以上、この獲物はあまり使えない。
  ジンは息を吸い、よく通る声で告げた。
「一度だけ忠告します。我々は武器を捨てた者には手荒な真似はしません。武器を持っている者にも手加減はしますが、殺さないという保証はできません」
  半分は本気だったが、半分は挑発だった。周囲を囲んでいる男たちからは、怒気が膨れ上がっている。だが、首領格らしい長身の男は冷静のようだった。
「大した自信じゃねぇか。女二人とガキ一人、何ができるってぇんだ」
  またか、とジンは心の中だけで溜め息をついた。
  首領格の男は軽い挑発で返したつもりだろう。ジンが男だと知ったうえでの挑発であれば感嘆するが、単に女に間違えられているだけのようだ。
「……しかたありませんね」
  ジンの呟きが終わらないうちに、囲んでいた男たちのうち一人が倒れた。男はどさりと大きな音を立て、膝から崩れ落ちている。
  何が起きたのかわからなかったのだろう、倒れた男の側に居た男たちも、動けずに居た。
「てめぇ、何をしやがった」
「私は何もしていません」
  ジンの言葉が終わらないうちに、今度は首領格の男の右後ろに居た男がうめき声を上げながら倒れた。
「くそっ、もう一人の女か!」
  マキリは気配を消すのが抜群に上手い。
  昼間に面と向かって戦えば、この男たちもマキリと互角に戦えるかもしれない。だが、この暗闇の中、この人数ではマキリの気配を正確に探ることは常人には難しいだろう。
「しょうがねぇ、一気にやれ!」
  言って、ナクリトへと切りかかる男。男の長身と斧の重さを活かした攻撃を、ナクリトは鉈で受け止めた。ナクリトは斧を押し返し、その反動を利用して後ろへと跳ぶ。
  男に続こうと、近くに居た男たちが二人してジンに切りかかる。ジンは間一髪でその攻撃をかわしながら、男たちをナクリトから離れた場所へと誘導した。ナクリトは三人、ジンは四人を相手にする形になった。
「はっ!」
  気合の声とともに、ナクリトが近くに居た手下らしい男に一撃を繰り出す。刃を反し、鉈の背で男が構える刀の根元付近を横殴りに殴りつけた。鈍い金属音が響き、男の構えていた刀は弾き上げられている。ナクリトは刀を弾いた勢いを殺さぬまま、空いている左手で男の着ている服の肩を掴んだ。次の瞬間には最初の勢いに乗せた足払いとともに、そのまま左腕の力で男を地面に引きずり倒してしまった。
「やるじゃねぇか!」
  首領格の男が声を上げる。引きずり倒された男は地面に頭を打ち付けられ、昏倒していた。
  ナクリトは無言で次の男に向き直った。

 一方ジンが相手をしていた四人は、二人にまで減っていた。他の二人はそれぞれ地面に倒れている。一人はジンが脇腹を殴って呼吸を止めた男で、地面で倒れたまま、のた打ち回っている。一時的に呼吸ができないため大変な苦しみだろうが、武器を使わず、そして殺さずに敵を無力化するのはなかなか難しい。もう一人はマキリに木の上から後頭部を蹴りつけられ、昏倒していた。
「くそっ、こいつら強ぇ!」
  どこから攻撃されるかわからないマキリの存在と、人間の声とは思えない音を口から発して呼吸できずにいる仲間。残り二人の男は、既に戦意を喪失しているようだ。
「刀を鞘に収めて、棄てなさい」
  なるべくなら、戦いたくはない。叩き伏せれば、無駄な恨みを買うことになる。殺してしまって構わないなら間違いなく殺すが、ジンはナクリトの意志を尊重したかった。
「わ、わかった!わかった!」
  男たちはそれぞれ刀を棄て、「降参だ」とでもいうように、両手を挙げて見せた。
「地面に座って、両足を伸ばしてください。手は肩よりも上に。膝を曲げても、手を肩より下に下ろしても、攻撃の意志があるものとみなします」
  武器は棄てさせている。縛り上げるまでもないだろう。男たちは黙ってジンの言う通りに座った。この状態からであれば、すぐには攻撃態勢に移ることはできない。
  ジンはナクリトに加勢するために駆けつけた。

 盗賊はあと一人、最初に話しかけてきた、首領格の男だけだった。斧という風変わりな武器を使うだけあって、戦い慣れているらしい。部下を二人目の前で倒されて、ナクリトをガキだと侮る気持ちはもう無いようだ。
  ナクリトは男が打ち込んでくる斧を何度か受け止め、何度か避けていたが、徐々に押され始めていた。
「おらぁっ!」
  何度目かの、男の渾身の一撃。頭上から振り下ろされる斧は、確実にナクリトの頭を割ろうとしている。手にした鉈の腹で斧を受け止めるのも、そろそろ限界だった。男の一撃を受けるごとに、手の痺れは増していく。力を込められない腕では、攻撃に転ずることもできない。
  それでもナクリトは反撃の機会を伺うことをやめていない。しかし、ナクリトの意志よりも先に、腕に限界が来てしまった。
「!」
  ギンッ、と鈍い金属音を立て、ナクリトは横に薙ぐような男の一撃を弾いた。そのまま斧の力を受け流そうとしたが、ついに鉈を取り落としてしまった。
  瞬間、ナクリトと男の目が合った。
  終わる。畜生。
  男は最後の一撃を繰り出すため、斧を振り上げた。

「若様!」
  叫んだ。ナクリトが危ない。この距離では間に合わない。
  そんな事を、頭で考えたわけではなかった。
  ジンはただナクリトと男が居る方向へと意識を集中し、自分が持つ最大の強さで風を願った。
  その瞬間、叩きつけるような突風が吹きぬけ、ナクリトと首領格の男が共に吹き飛ばされていた。
  ナクリトは突風の中で体勢を整え、受身を取って地面を転がっている。
  男は近くにあった樹に全身を強く打ち付けたようだ。意識はあるようだが、痛みのせいか、地面に倒れて呻いている。
  ジンはナクリトの所へと駆け寄った。身体が重い。まるで、沼の中でもがいているようだ。マキリに助け起こされたナクリトは、特に怪我などは負っていないらしい。
「若様、申し訳ありません」
  咄嗟の事とはいえ、ナクリトごと吹き飛ばしてしまった。ナクリトが上手く受身を取っていなければ、大怪我を負わせてしまっていたかもしれない。ジンは自分の未熟さを恥じた。
「大丈夫だ。ジン、よくやった。助かった」
  ナクリトはそう言いながら、ジンの肩へと手を置いた。
  座ってもいい、という事だろう。気力が切れたジンは、片膝をついて座り込んだ。
「ちっくしょう……!お前ら、天狗だったのか……!」
  仰向けになって倒れたままで、首領格の男が呻いた。もう戦う意志は無いらしく、起き上がろうともしていない。
「ジン、死んだ者は居るか?」
「おそらく居ません。気を失っている者は居ますが、息はあります」
「よし、よくやった。マキリもだ」
  ナクリトはそう言うと、首領格の男の所へと歩いた。 
「俺たちを、どうする気だ?」
  自分たちよりも弱いと思っていた相手に負けて、恥ずかしいのかもしれない。好きにしろ、と言わんばかりに、首領格の男が訊ねた。
  ナクリト達の戦い方を見て、殺される事は無いと安心しているのだろう。男は不敵な笑みを浮かべている。
  なるべく殺すなと言った以上、ナクリトはこの男たちを利用しようと考えているはずだ。
  ジンも、それには賛成だった。もっとも、全員を生かしておく必要は無いと考えていた。
  とりあえず、今この男たちが知っている全ての情報を聞き出すべきだ。そのうえで、いくつかの嘘の情報を与えて開放すれば、城からの追っ手の撹乱くらいには使えるかもしれない。
  だが、次に響いたナクリトの言葉は、ジンの予想とは大きく違うものだった。

「お前達、俺の配下に入れ。俺は盗賊になる」

「な!若様?」
  ジンの声は、裏返っていた。
  いきなり何を言い出すのか。
  冗談かとも思ったが、ナクリトの顔は真剣そのものだ。
「国はどうするのです!」
「知らん。王になりたい奴なんざいくらでも居る。やりたい奴がやればいい」
「ふっ、ははっ、はははははっ!」
  仰向けの男の口から、大きな笑い声が響いた。
「……いいぜ、おもしれぇ。城育ちの若様に何ができるか、俺たちに見せてくれや」
  そう言って男が浮かべて見せた笑みは不敵なものだったが、どこか人懐こいものだった。

第二話 支援と応援

 深夜、ホウテンカは文机の前で考え事をしていた。ムカルト死亡の報せが入ってから、数日が経っている。この数日、ホウテンカは方々に配下の者を放ち、情報を集めていた。
  今後の自身の動き方を、大きく変えるべきかもしれない。
  部下たちにはナクリトの行方を最優先で探らせている。だが、生きているのか死んでいるのか、それすらも正確には掴めていない状況だった。
  さらに、城からは毎日のように使者が来ているが、使者は決まって宰相リュウエンの名代を名乗った。ムカルトが死亡し、ナクリトの行方もわからない以上、この国を治めるのは暫定的にリュウエンという事になる。リュウエンはこれまで宰相として申し分の無い働きを周囲に示していた。それに、なにより若く、まだ正式には結婚もしていない。他国から、もしくは国内の有力豪族から妻を迎える事が可能であるため、この国が国として生き残っていくための王として、条件は悪くない男だ。
  そのリュウエンに対し、国内では指折りの有力豪族であるホウテンカが協力的か否かは、政治的に大きな意味を持つ事だった。
  城方からは、今回のムカルトの死は賊によるものだと言ってきている。
  ムカルトを殺害した後に逃げようとする賊を、リュウエンが偶然発見し、斬り捨てたらしい。賊の持ち物を検めたところ、懐から大量の金子が出てきた事から、賊の目的は盗みであり、金目の物があるはずだと考えて領王の居室を狙ったのだろうというのだ。
  しかし、ホウテンカはこの情報は大いに怪しいものだと判断していた。
  目的が盗みであるなら、ムカルトを殺す必要性は無い。
  では、賊の目的が最初からムカルトの命であったとすれば。
  それも、考えにくい。ムカルトを殺害する理由を持つ者であるとすれば、それはこの国の弱体化を目的とする何者かの手先のはずだ。しかし、この国の弱体化を狙うのであれば、ムカルトだけではなくナクリト、そしてリュウエンも同時に殺す。自分ならばそうする。
  あるいはナクリトだけを殺し、しかる後にリュウエンがこの国を継ぐために、ナクリトを暗殺したのだという噂を流す。リュウエンはナクリトさえ居なければムカルトの跡を継ぐ男である。この噂を信じる者も相当数居るであろうから、この国はいずれ分裂の可能性を孕むことになる。
  しかし、賊はそうはしなかった。
  リュウエンが生き残った事に関しては、リュウエンが偶然、賊を見つけて斬ったというのが本当であれば、ありえない事ではない。リュウエンの居宅は城外にあるが、役目がら城に泊まるのはよくある事だ。深夜に急な用でムカルトの居室に駆けつける事もあるだろうし、武術の心得もある。
  だが、これではナクリトが姿を消している理由がわからない。
  城下には、ナクリトが父を斬り出奔したのだという噂もあったが、それは無い。ナクリトは血の熱い若者だが、血の熱さに踊らされてしまうほど愚かではない。さらには、いつもナクリトと行動を共にしているジンとマキリも消えている。この三人が同時に消えている以上、何らかの理由で姿を隠しているのだと考えられる。
  つまり、生きている可能性が高いという事だ。
  ナクリトさえ生きているのであれば、自分はリュウエンに従うわけにはいかない。自分が主だと認めたのはムカルトだけであり、その息子のナクリトも、いずれは主人として認められるほどの男に育つだろうと確信できる。だが、リュウエンには何かが欠けている。大人しく従う気には、なれなかった。
  とはいえ、今の状況下で有力豪族であるホウテンカが日和見な態度を取り続けるにも限界がある。
  事実、国境沿いの小勢力のいくつかでは、この国を見限って近隣国を頼り始めている気配がある。次期国主が誰であれ、なるべく早く、国内の豪族たちが団結しているという姿勢を示す必要があった。
  だが、と、ホウテンカの思考はいつもここで止まる。
  もしもムカルトを殺したのが、リュウエンであるなら。
  ナクリト達が姿を消しているのも、その事に気付いているが故の逃亡であるなら。
  ナクリト達は近いうちに、それこそ今この瞬間にも自分を頼ってこの館にやってくる可能性がある。
  その一点が、ホウテンカの決断を鈍らせていた。
  ナクリトが生きて自分を頼ってくれるなら、リュウエンなどを王に据える必要は無い。これはホウテンカの感情の問題だけではない。正統な後継者が国を継ぐという事には、それなりに意味がある事だった。
  正統な後継者は、先代までが営々と積み上げてきた者を引き継ぐ事ができる。自然、国の乱れは少なくなる。乱れが少なければ、領民は安寧な日々を過ごす事ができる。そして多くの領民が、安寧を望んでいた。
  たとえそれが、いくらかの者の犠牲のもとに成り立つ安寧だとしてもだ。

 月の傾きが替わるほどの間、文机の前で過ごした。抜け出せない思考の迷路からホウテンカを引き剥がしたのは、天井の隅から伝わる、何者かの気配だった。
  ホウテンカは静かに、側に備えていた脇差を手に取った。抜き放つ事はなく、しかしいつでも抜き放てるように体勢を整える。
  天井裏の何者かからは、殺気が感じられなかった。そして、気配を隠そうともしていない。
「誰だ」
  ムカルト死亡の報告が入ってすぐ、外部からは見えにくい形ではあるものの、邸内の警備を強化していた。
  その警備を突破し、ホウテンカの居室まで侵入してくるほどの者であれば、気配を消す事くらいはできるはずだ。にもかかわらず、天井裏の侵入者は気配を消していない。まるで、ホウテンカが自分の存在に気付くことを期待しているかのように。
  ホウテンカが声をかけてから少しだけ間を置いて、天井の板が小さな音を立てて開いた。ちょうど、人ひとりが通ることができる程度の隙間ができている。その先には、完全な闇が見えていた。
「……降りてきなさい。話があるのだろう」
  警戒を完全に解いたわけではない。だが、この侵入者はホウテンカの呼びかけに応え、わざと小さな音まで立てて人が通れる程度の隙間を作った。侵入者はそこから降りてくるつもりなのであろう。
  ほんの少しの間を置いたあと、天井の暗闇からは手が伸びてきた。文机に備えられた灯火が、その手を白く照らし出している。女の手だった。その手が、ホウテンカに向かってひらひらと振られている。姿を見せるから警戒するな、という意味だったのだろう。その手が暗闇に引っ込んだかと思うと、次の瞬間には部屋の中に女が居た。
「おじーちゃん、久しぶり」
「マキリか。無事だったのだな」
  ホウテンカはさほど驚くでもなく、侵入者を迎え入れた。侵入者の正体は、天狗の少女、マキリだった。マキリの兄がいつもナクリトの側に居るため、自然とマキリもナクリトと行動を共にしている。そのため、ホウテンカ自身もマキリとは言葉を交わしたことがある。
「お前が無事であれば、若様もジンも、無事なのであろうな」
「うん。若様が、その事だけはおじーちゃんに伝えてこいって。生きてるから余計な心配はするなって」
  自分の心配は、余計だったか。
  ホウテンカは内心苦笑しながら、安堵した。
  マキリがこう言うのであれば、ナクリトは本当にそう言ったのだろう。明らかに無礼なナクリトの言葉だったが、その言葉にホウテンカは腹を立てる気にならず、むしろ愛嬌だと感じている。
  リュウエンが持っていなくて、ナクリトが持っているもの。それが何かは言葉で表しにくいが、ホウテンカが腹を立てないのは、ナクリトがその「何か」を持っているからだ。
「まずは、無事でなにより。して、若様は今、どこで何をしておられるのだ」
「それは、言うなって言ってた。ただ、これからは自分で生きていく、って。おじーちゃんは好きにしろ、だって」
  まったく、ナクリトらしい。領王の嫡男の座を棄てて、一体何になろうというのか。以前からナクリトが城暮らしを好まない事は知っていたが、あと数年もすれば諦めるものと思っていた。それがこうやって、歪んだ形で野に放たれたのだ。ナクリトなりに、何か考える事があったのだろう。
  とにかく、ナクリトが無事である事がわかった。そして、自分を頼らないと決断した以上、ナクリトは何らかの生きていく方法を見つけているようだ。
  これだけわかれば、今後の自分の身の振り方もある程度は固めることができる。
「好きにしろ、か。若様らしいな。では、ジンはどうすると?」
「兄様?溜め息ついてた」
「そうか。ジンも気苦労が絶えぬ男だな」
  そう言って、ホウテンカは少しだけジンに同情した。
  ナクリトは子供の頃からあまり変わらないが、ジンも変わらない。ジンは責任感が強く、ナクリトの側仕えとして気負い過ぎている所がある。
  ホウテンカの目から見れば実に上手く噛み合っている二人だが、ジンにしてみれば苦労の連続だろう。ジンのような男は、多少の後ろ盾があった方がその能力を発揮しやすいはずだった。
  その後、ホウテンカはマキリといくつか言葉を交わした。
  そして、伝えるべきことを伝えた後、
「マキリ。これを、持って行きなさい」
  言いながら、ホウテンカは文机の下から布包みを取り出した。マキリが片手に乗せて持てる程度のその包みを、ホウテンカは両手でマキリへと手渡す。ホウテンカに倣い両手を差し出していたマキリだが、その重さに驚いたようだった。
「なんか重い。おじーちゃん、これ何?」
「銭だ。金で百枚ある」
「金、百!」
  マキリは驚いたようだったが、大声を出すのは我慢したようだった。
  金百枚といえば、普通の百姓一家が三年から五年は楽に暮らしていける額だ。それに、京と違ってこの辺りは銭の流通量も少なく、銭そのものが貴重品だ。いかにホウテンカが有力豪族とはいえ、気まぐれで出せる銭ではなかった。
「必ず、ジンに渡しなさい。若様には、何も言ってはいけない」
「わかった。でもなんで?」
  大事そうに金の包みを抱えたまま、マキリが訊ねる。
  ホウテンカは「お守りのようなものだ」と言いかけたが、思い直して別の言葉を選ぶことにした。
「若様は、自分で生きていきたいと考えているのだろう?であれば、儂からの銭は受け取らぬであろうよ」
「そっか、そうかも」
  マキリはそう言いながら、何度も頷いた。
  素直に頷くマキリには申し訳ないが、この銭はナクリトに贈ったものではない。ジンがホウテンカという男の後ろ盾を実感できるようにと思っての銭だった。
  それに、自分がナクリトの勝手とも言える振る舞いにも怒っていない事を示しておきたかった。その一つの事実を上手く伝えられているか否かが、いずれ大きな違いになることもあるだろう。
「それから、これは若様にもジンにも伝えてほしい。儂の力が必要なときは、いつでも頼ってほしい、と」
「うん、わかった。伝える」
「さあ、もう行きなさい。他の者に気付かれると厄介だ。……くれぐれも、身体には気をつけなさい」
「うん、ありがとう。おじーちゃんも、元気でね」
  マキリはそう言うと、銭の入った布包みを懐に入れ、立ち上がった。
  この部屋に入ってきたときと同じく、天井の隙間から出て行くつもりらしい。
  マキリは隙間の下の畳を蹴って跳び上がり、両腕の力で身体を天井裏の闇の中へと滑り込ませる。そして一度、上下逆さまに顔を出して笑顔で手を振って見せた後、天井板を元通りに閉じて行った。
  入ってくるときとは違い、マキリは一度も音を立てることはなかった。
 
  これから、忙しくなる。
  ホウテンカは久々に、血が沸くような興奮を覚えた。
  ナクリトが、生きていた。ジンもマキリも、無事のようだ。
  ナクリトの事は、生まれる前から知っている。生きてさえいれば、必ず大きく育つ男だ。そしてジンとマキリがその側に居るのなら、ナクリトが頭角を現すのもそう遠い将来の話ではないだろう。
  だが、ナクリトが育てば、いずれ必ずリュウエンとぶつかる事になるだろう。
  自分にできることは、そのときに備え、リュウエンの力の拡大を防ぐこと。そして、いつか大きく育ったナクリトの力となれるよう、自身の力を蓄えること。
  ナクリトが城に戻らない以上、近いうちにこの国の王はリュウエンになる。その時ホウテンカは、少なくとも形式上はリュウエンの配下となる。
  明確に謀反を起こすならともかく、形式上は配下でありながらも相手の力を削ぎ、そして自身の力を蓄える。
  これはいかにも難しい事ではあったが、ナクリトのためならば骨を折るだけの価値はある。
「さて……」
  ホウテンカは小さく呟き、そして仕事に取り掛かった。

第三話 更生と決起

 エシカイが最初にナクリト達と対峙したとき、女連れの子供だと思って侮っていたのは確かだった。
  だが、自分たちの油断が無くとも、ナクリトとその従者たちには敵わなかっただろう。
  今、自分と部下たちの命があるのは、ナクリトが二人の従者に手加減を命じたからだと、エシカイはそう認識していた。
  ナクリトが命じるなら、この従者たちは躊躇うことなく自分たちを殺していただろう。

 あの夜、エシカイは部下の男たちが動けるようになった後、ナクリト達を自分たちの隠れ家に案内した。
  ナクリトの従者の二人はそれぞれジン、マキリと名乗った。
  隠れ家までの道中、ジンは立ち上がる事がやっとというほど消耗しているらしく、ナクリトとマキリに肩を支えられて歩いていた。
「あんたたち、天狗か?」
「うん、そうだよ」
  答えたのはマキリだった。ジンは何も答えなかったが、特に否定するわけでも無い。
  エシカイたち普通の人間は、元々は大陸からこの土地に渡ってきた者たちの子孫であるとされている。天狗はその者達が大陸からやってくるはるか以前から、この土地に住んでいた者の末裔だった。
  姿形は人間とよく似ているが、天狗は普通の人間には無い力を持っている。あの夜、ナクリトに斬りつけようとしたエシカイが突風に吹き飛ばされたのも、ジンが使った天狗の力だ。
  ただ、大きな力を使えば天狗も消耗するらしい。ナクリトとマキリに支えられながら歩いているところを見ると、ジンがあの夜使ったのはかなり大きな力だったのだろう。
  ジンとマキリはよく似た顔立ちをしていたため、エシカイはてっきり天狗の姉妹だと思っていたのだが、ジンが無表情で訂正した。
「念のため断っておきますが、私は男です」
  ジンはその後もほとんど表情を見せず、エシカイとは必要以上の会話をしようとしなかった。最初のうちは女に間違われたことを起こっているのかと思っていたが、どうやらジンとはこういう男のようだった。
  隠れ家までの道中、部下の男たちは先頭を歩くエシカイとナクリト達とは少し距離を置き、静かについてきていた。

 隠れ家に案内してすぐ、それぞれが適当な場所で夜明けまで休むことにした。ジンの消耗が激しいし、部下たちも戦いに負けて気疲れしている様子だった。
  ナクリト達は三人固まって、いつ見ても誰かが見張りをしていた。
  エシカイ自身も含め、男達はもう、ナクリト達に刃向かうつもりは無かったが、安心しろと言ったところで安心できるものでもないだろう。
  エシカイは少しでもナクリト達の心配を和らげようと、ナクリト達から見える場所に陣取って眠った。

 翌朝、ナクリトの生存を報告するため、マキリがホウテンカという南の有力者の所へと向かった。マキリは気配を消すことが上手く、屋敷の者に知られる事無くホウテンカと接触できるらしい。
  エシカイはまだ少女と言えるような外見のマキリを一人で行動させる事に疑問を持ったが、ナクリト達と交戦した夜の事を考えれば、大丈夫だという言葉を信じるしか無かった。
  マキリが出て行った後、エシカイはジンを連れてこの隠れ家がどのようなものか、周辺を案内した。ナクリトも一緒にどうかと誘ったが、やることがあると言って、一人で森の中へ消えていった。
  ジンは少しの時間眠っただけで、普段どおりの体調まで回復したらしい。天狗の身体とは便利なものだと、エシカイは一人で感心した。
「しかし、この隠れ家は本当によくできていますね」
  事実を述べているだけ、といった口調ではあったが、ジンは素直に感心しているようだ。
  自分が褒められたわけでもないが、エシカイは悪い気はしなかった。
「まぁな。部下の中に、頭の回る奴が居てな。いろいろと工夫してるうちに、こうなった」
自分たちは単なる盗賊ではない、という自負が、エシカイにはある。
  隠れ家は他にもいくつかある。この国の中だけではなく、他国にも拠点を持っていた。
  一箇所に留まっていると、その土地の有力者が兵を差し向けてくる。盗賊稼業をしている限り、ときどき活動拠点を移す必要があった。ただ、、この拠点だけは言わば本拠地とでも言うものであり、洞窟を利用した倉庫や小川から水を引いて作った水場、煙が拡散するように手を加えられた竈などがある。
  また、よほど注意深く探さない限り見つけられることが無いよう、樹木を使って上手く隠されてもいた。
「食いもんやら銭やらも、多少は蓄えてあるぜ。酒も、少しならある」
「なるほど。蓄えがあるというのは、すばらしいですね」
  案内しているうちに、ジンの口調は柔らかくなってきていた。最初は冷たい男だと思っていたが、単に人見知りなだけかもしれない。
  半日ほどをかけて、エシカイはジンに隠れ家の周辺の地形も含めて説明した。
  ジンは時折質問を挟んできたが、大体はおとなしくエシカイの話を聞いていた。
  昼前になって、ジンと二人で隠れ家に戻ると、ナクリトが日陰で小刀を使い、木で何かを彫っていた。
「なぁ、ジンさん。大将は、ありゃあ何やってんだ?」
  エシカイはナクリトのことを、大将と呼ぶ事にしていた。部下たちもエシカイに倣ってそう呼んでいる。ジンとマキリのことは、それぞれジンさん、マキリさんと呼んで、一段格上の存在として立てることにした。
「さぁ……。わかりません」
  エシカイと共にナクリトを見ながら、ジンは答えた。本当にわからないらしく、首を傾げている。
「まぁ、そのうちわかると思います。若様は無駄な事はあまりしない人ですから」
「そんなもんかい?」
  ジンとナクリトがお互いのことをよく理解しているのは、見ていればわかる。聞けば、ナクリトが生まれる前から、ジンは側仕えとして過ごしてきたというのだ。そのジンが言うのだから、おそらく間違いは無いのだろう。
「では、私はこれで。案内、ありがとうございました」
「ああ。なんかあったらまた声をかけてくれ」
  ジンは浅く一礼して、去って行った。
  エシカイが一人になるのを待っていたのだろう、部下の一人が声をかけてきた。
「お頭。本当にあいつらに従うつもりなんですかい?」
「ああ。あいつらは強い。それに、ナクリトは王の息子だ。今は城方に追われちゃいるが、上手くすりゃまた王になれるかもしんねぇだろ」
  そのときは、自分たちもしかるべき待遇で迎えられるはずだ。
  今のままの盗賊稼業でも、三年、五年程度なら食いつなぐこともできるかもしれない。ただ、その先が見えない。
  だから、部下たちのためにも、ナクリトという男を利用して、成り上がる必要があった。ジンもナクリトも、エシカイがその程度の下心を持っていることなど、見抜いているだろう。お互いに利用しあうのは、そう悪いことではないとエシカイは思っていた。
「そりゃあ、わかるんですがね……」
「まぁ、暫くは様子を見ようぜ。ついていけねぇとなったら、その時考えればいい」
  エシカイがそう言うと、部下は仕方が無いといった様子で去って行った。

 数日が経った。マキリがホウテンカの屋敷から帰ってきたという事以外、特に大きな変化はなかった。
  エシカイの見た限りでは、この数日間、ナクリトは考え事をしているか、小刀を使って何かを彫っているかのどちらかだった。どうやら面のようなものを彫っているようだが、ナクリトがそれを何に使おうとしているのかは見当がつかない。
  ただ、ナクリトは部下たちと一緒に食事を囲んでいるので、部下のうち何人かとは打ち解けてきている。しかし、そうでない者にしてみれば、何もしない大将に不満を持ち始めてもおかしくない頃だった。
「ジンさん、ちょっといいか」
「なんです?」
  自分が直接言うよりも、ジンから言わせた方がいいだろう。そう思って、エシカイはジンが一人になるのを見計らい、追いかけた。
「そろそろ、動いた方がいい。部下たちが飽きてきている」
  部下たちは今のところ、ナクリトを大将として迎え入れるというエシカイの決定に、特に文句は言っていない。たった三人の、しかも女連れの若者に叩き伏せられたとあって、部下たちはまだ、反抗する気は無いようだった。
  ただ、心からナクリトを受け入れているはずもない。エシカイが従っているから、仕方なく自分たちも従っている、というのが、部下たちの正直な心境だろう。
  この先ナクリトの下で部下達を纏め上げていくためには、早く何らかの実績を作る必要があった。
「ここに居る奴らは、何かさせておいた方がいいんだ。血の気が多い奴も居るし、何かしてねぇと不安って奴も居る」
「それは、わかっています」
「わかってるんならよ、ジンさんからも大将に言ってやってくんねぇか」
  エシカイの言葉に、ジンが薄く微笑んだ。
「若様はああ見えて、ちゃんと考えていらっしゃいます。近いうちに、必ず動き出しますよ」
「そうかい?しかし、なぁ……」

 次の日の朝だった。エシカイはジンに呼ばれ、言われるままについていった。
  ついていった先には、ナクリトとマキリが居る。
  部下たちには聞かせたくない話だろうか。
  エシカイは少しだけ不安だったが、次の瞬間のジンの言葉で、その不安はかき消された。
「エシカイ、待たせたな。そろそろ動くぞ。ジンとマキリも聞いてくれ」
「おう、大将。やっとだな」
  エシカイは内心、安堵した。ナクリトが動かなければ、どこかの段階で見切りをつける必要がある。そう考え始めていた矢先だったからだ。
「で、何をするんだ?」
「城の倉を襲うぞ」
  ナクリトが、簡潔に答えた。あまりに簡潔で、エシカイは一瞬、言葉の意味が飲み込めなかった。
「なんだって?」
「本気ですか?」
「若様、いいの?」
「城の倉を襲うぞ。俺はいつも本気だ。やると言ったらやる」
  エシカイだけではなく、ジンとマキリも今、初めて聞いたようだ。
  正直なところ、驚いた。
  だが、ナクリトはいきなり盗賊になると言い出すような男だ。この程度の事を考えていても、おかしくはないのだろう。
  それに、エシカイはどこか高揚感を感じている自分を自覚していた。
「しかし……危険です」
「どんな仕事にだって危険はあるだろ」
「ジンさん、いいじゃねぇか。成功させりゃ、部下達も大将の事を認めるようになるさ」
  そう、危険ではあるが、こんな仕事をやり遂げれば部下たちはナクリトを大将と認めることだろう。それに、部下たちに自信もつく。悪い仕事では無いはずだ。
「エシカイ、明日一日で城の近くまで移動して、夜、闇に紛れて忍び込むぞ」
「よっしゃ、準備しておこう」
「ジンとマキリは城の見取り図を描いてくれ。みんなに見せて、作戦を説明したい」
「……わかりました」
  渋々、といった表情ではあったが、ジンが頷いた。
  見取り図を描くには、紙があったほうがいいだろう。そう思い、エシカイはマキリを連れて倉に入り、紙と筆を手渡した。
「ありがとう、エシカイさん」
  マキリは丁寧に礼を言って、ジンの所へと走っていった。

  これから、忙しくなる。まずは部下達に説明し、その気にさせなければならない。いくつか用意しなければならない道具もある。
  エシカイにとって、久々に胸が熱くなる仕事だった。

※Webで公開しているのはここまでです。
続きはイベントや通販で頒布しております『焔の祭宴』に収録していますので、そちらでお楽しみください。

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