『砂漠の海と銀の月(2008.4.10)』
第四章
「申し訳、ございません……」
跪いて頭を下げながら、ハドルはゴルの後ろ姿に向けて謝った。
ゴルは机に向かい、何やら書類仕事をしているようだった。そのまま数秒、無言の時間が流れたが、ゴルが小さく、よし、と呟いて振り向いた。
「待たせたな。早めに済ませたい仕事だったのだ。……で、何事だ?いきなり」
小さくなってうなだれているハドルに対し、ゴルは普段よりも若干明るめの声で対応した。ハドルはそのままの姿勢でもう一度謝罪の言葉を口にする。
「バド=ティリタイの娘を、仕留め損ないました。申し訳ございません」
「……そうか、わかった。詳しく聞かせてくれるか?」
「は……」
ハドルはそのままの姿勢で、事の次第を報告し始めた。
自分が夜襲をかけた大まかな場所と、なぜ失敗したか。
カフェ=ティリタイの他の、若い男の事。
一度目の失敗のために警備が厳しくなったこと。
そして、キャラバンの中にあの二人が居る間はもう襲撃の機会は無いと判断し、先行してトルクォルへと戻ってきたこと。
ゴルは時々質問と相槌を挟みながらハドルの話を聞き終え、
「わかった。……では、その二人はまだこの国には入っていないのだな?」
「はい、そのはずです。ラクダの速度では、おそらく明日か明後日になるかと」
なるほど、と呟くと、ゴルは少し考え込むように黙った。
ハドルはゴルの次の言葉をじっと待っていたが、
「ハドル、お前はどうすべきだと思う?」
ゴルに尋ねられて、ハドルは少し、驚いた。ゴルが意見を求めるなど、普段はあまり無いことだ。
「では……。カフェ=ティリタイがキャラバンの中に居る間は、おそらく手出しできないかと思います。ですから、トルクォルに入ってから使者として王宮に入るまでの間に……。例えば宿で襲うのが良いかと」
「なるほど。多少面倒だが、それが言い。お前に任せて良いな?」
「は!是非」
気負いこんで返事をするハドルを見ながら、ゴルは軽く頷いた。そして、まだ跪いたままのハドルに、
「ハドル、顔を上げてくれ」
と声をかけた。
一瞬のためらいの後、ハドルは恐る恐る顔を上げた。ゴルは、失敗を責めるような主人ではない。しかし今回の失敗は、痛手が大きくなる可能性が高い。罰があったとしても、仕方の無いことだとハドルは覚悟していた。
だが、予想に反して、顔を上げたハドルには主人の優しい言葉が返ってきた。
「ハドル、お前はよくやってくれている。お前が居なければ、私には何もできないんだ。……お前が思うほど、お前は無力じゃない。……わかるか?」
創造すらしたことが無いほど、優しい言葉。
あまりに意外で、ハドルは声が出せなかった。二回ほど、何か言おうと口を動かしたが、結局それは言葉にならなかった。
そんなハドルを見ながら、ゴルは子を見守る父のような目で頷くと、
「では、頼んだぞ」
と言って、また机に向かった。
ハドルはそのままの姿で数秒動かなかったが、やがて立ち上がると、ゴルの背に向けて、深く礼をした。
そして、音を立てずにいつの間にか部屋から居なくなっていた。
太陽が夕陽の色を帯び始めた頃、アリガン達のキャラバンはトルクォルに入った。
キャラバンの隊員である商人達は、入国のための簡単な審査の順番を待ちながらも、皆楽しそうな雰囲気だった。
トルクォルはこの周辺では最大の都市国家であり、商機も娯楽も充分にある。砂漠と荒野を旅してきた商人達が気を緩めるのも当然だった。
アリガンとカフェもその例に漏れず、お互いに自然と笑みがこぼれていた。
「トルクォルは久しぶりだね、アリガン」
「ええ、やっぱり懐かしいです」
アリガンにとっては、トルクォルは様々な思い出がある街だ。そしてカフェも、この街をアリガンに出会った特別な街だと思っている。
アリガンがバドに拾われてからの数年の間に、このトルクォルに立ち寄ったことは何度かあった。そのたびに笑顔で街に入ったアリガンとカフェだったが、今回の旅では色々なことがありすぎた。
そして、やっと目的地に着いたという安心も、二人の心を軽くしていた。
「早く手紙、届けてさ。戻りのキャラバンが出るまでは、ゆっくりしようね」
「そうですね。お嬢様も今回の旅では、お疲れでしょう」
そんなことを話しながら入国審査の順番を待っていると、やがて二人の番になった。
担当のトルクォルの役人には見覚えがある。以前にも何度か、自分達の入国審査を担当したのかもしれない。
挨拶を済ませると、アリガンとカフェは顔を覆っていたフードを取った。
「こちらはカフェ=ティリタイ様。商人バド=ティリタイ様のご息女です。私は従者のアリガンと申します。以上二名、入国を希望します」
役人はバドのことを知っているらしく、わかりやすい笑顔を見せた。従者であるアリガンにも丁寧な態度で応じたところを見ると、バドがトルクォルの有力者に顔が利く事まで知っているらしい。
「カフェ=ティリタイ様ですね。存じております。ですが、バド=ティリタイ様はご不在なのでしょうか?」
「はい、バド様は旅の途中にお怪我をなさいました。今回はカフェ様のみです」
「お二人だけで……?何か、特別な事情でも?」
半分は仕事、半分は個人的な興味といった面持ちで尋ねる役人に、どこまで話していいものか、アリガンは言葉に詰まった。
考えてみれば、正式な使者が面会を受けるためにはそれなりの準備が必要なはずだ。当たり前のことではあったが、色々なことがありすぎてアリガンはそのことを忘れていた。だがそこへ、後ろで静かに待っていたカフェが一歩前に出た。
「実は今回、父はカッパラ王より国使として親書をお預かりいたしました。父が国使に選ばれた理由は、王族の方々に会えばわかるとの事です。急ぎの用事のため、怪我をした父の代理として私が参りました。王宮へお取次ぎをお願いいたします」
堂々と言い切ったカフェにアリガンも役人も意外そうな顔をしたが、役人はすぐに態度を改めて、
「そうでしたか。本日はもう陽も暮れますし、明日、王宮からお呼びがかかるように手配をしておきます。本日は市中にて、お休みいただけますか」
と言って、部下らしき男に宿への案内を命じた。
アリガンは役人と部下の男に礼を言った後、トルクォルにはバドが家を所有している旨を告げて、宿への案内を丁重に断った。
「そうですか。では、お気をつけて」
どこか残念そうな役人にもう一度礼を言って、アリガンとカフェはトルクォルの中へと入った。
人通りは多く、道の両脇には隙間無く露店が出ている。
街に入ってすぐは旅人むけの商品を扱う店が多かったが、中心街に近付くにつれて日用品や食料を売る店の割合が増えていく。
アリガンとカフェはラクダから降りて、並んで歩いた。
「ねぇアリガン、人の数、少し減ったと思わない?」
「言われてみれば……。確かに、そうですね。やっぱり今は政治的に不安定なのかもしれませんね」
カフェが言う通り、人通りは多いながらも、それでも以前と比べると少し減っている印象だった。
政治的に不安定な地域や国を避けて移動する旅の商人は多く、トルクォルも今はそういった国の一つだと判断されているのかもしれない。
今回の自分達の仕事は、考えている以上に多くの人間に影響を与えるのかもしれない。そんな事を考えながら、アリガンはゆっくりと歩いた。
やがて二人はバドが所有する家に到着し、ラクダから荷物を降ろして買い物に出かけた。
トルクォル王宮の奥、姫の部屋の隣の侍女たちの控える部屋に、アーニャとその部下数人が円卓を囲んでいた。
部屋の中には夕陽が差し込んでいて明るいが、すでにいくつかのランプには灯が入れられていた。
アーニャ達はその明るい部屋には似つかわしくない厳しい表情で、何かの話をしているようだった。
「なるほど、商人がね……。その、使者の商人の名前はわかる?」
「はい、バド=ティリタイの娘の、カフェ=ティリタイという方のようです」
答えたのはまだ若い、少女とも言えるような年齢の侍女だった。
アーニャは部下の言葉に頷きながら、少し驚いたような表情を見せた。
「なるほどね。確かにバド=ティリタイは適任かもしれないわ。……でも、どうして娘なのかしら?誰か知らない?」
そう言いながら、アーニャは部下の侍女たちの顔を見廻した。
何人かは首を横に振って応えたが、アーニャの右隣の女性が小さく手を上げた。
「なんでも、途中で盗賊に襲われたと聞いています。その時に負傷して、バド=ティリタイは途中のオアシスに残っていると……」
「盗賊に?……殺されてはいないの?」
「はい、市場で商人達が話しているのを聞いただけなので、どこまで正しいかはわかりませんが……」
「そう……。本当だとすれば、おかしいわね。盗賊に襲われたなら、普通は皆殺しか無傷かのどちらかのはず……。気になるわ」
アーニャはそう言って、少しの間、何か考え事をしているかのように黙っていた。
部下は皆、アーニャの次の言葉を静かに待っている。
やがてアーニャは何かを決意したように小さく頷いた。そして顔を上げ、ゆっくりと部下達を見廻した。
「誰か、カフェ=ティリタイが今晩泊まる場所、わかる?直接行って、確かめてくるわ。……嫌な予感がするのよ」
市場に出ている店の数が、だんだん減り始めていた。
夕陽はすでに沈みかけていて、建物が作り出す影のために大通りは薄暗い。
王宮の周辺と一部の主要道路では、今頃は下級役人達が街灯に灯をつけて回っている時間だった。
アリガンとカフェは荷物を降ろしてからの短い時間、買い物をして過ごし、今は家路を急いでいるところだった。
アリガンは両手で抱えるように荷物を持っていて、カフェはその隣で満足そうに、そして少しだけ不満そうに歩いている。
アリガンの右肩の傷はまだ完治してはいないが、無理をしなければ日常生活に支障が無い程度には回復していた。買い物のとき、アリガンの怪我を気遣って荷物を持とうとしたカフェだったが、アリガンは無言でカフェの腕から荷物を取り上げてしまっていた。
拗ねたように少し口を尖らせたカフェを見て、アリガンは苦笑していたが、歩いているうちにカフェの機嫌は治ったようだった。
「買い物、楽しかったね」
「ええ、本当に」
楽しそうに言うカフェを見ていると、アリガンも釣られて笑みがこぼれてくる。
久しぶりの大きな街で、つい余計な物まで買いすぎてしまったが、カフェが嬉しそうにしているのでアリガンは満足だった。
思っていたよりも遅くなってしまったので、帰ったらすぐに夕食の準備をしよう。
そう考えながら、アリガンはカフェの歩調に合わせてゆっくりと歩いた。
部下が言うには、バド=ティリタイはトルクォルに家を所有しているらしかった。
旅をする商人が家を所有しているとは珍しいことだったが、バド=ティリタイはトルクォルに来るたびにその家に泊まっているらしい。おそらくカフェ=ティリタイも今夜はその家に泊まっていることだろう。
旅の商人むけの宿に泊まっていてくれれば見つけやすいのに、と思いながらも、アーニャは案内の部下を一人連れてカフェ=ティリタイが居るであろう家へと急いでいた。
夕陽はすでに暮れていたが、人通りはまばらにあった。
アーニャと部下はそれぞれランプを持って、すれ違う市民が不自然に思わない程度の早足で進んだ、
「けっこう遠いのね?」
「そうですね。中心街からは少し……。でも、もうすぐのはずです」
バドの家を知っているという部下に案内されながら、アーニャは焦りを感じていた。悪い予感と言ってもいい、何かが起きる前触れだ。
悪い予感は、信じるべきだ。
アーニャは常にそう考えているし、その考えに救われたことも多い。
前に立って案内する部下は普段とあまり変わらない態度だったが、アーニャの焦りを感じ取ってか、少しずつ歩調を速めているようだった。だが。
「待って……。静かに、ゆっくり歩いて……」
後ろから、部下の耳元にアーニャが囁いた。
若い部下は驚いて身体を震わせたが、すぐに小さく頷くと、黙って前を向いたまま徐々に歩調を緩めていった。
少しの間そのまま歩いていたアーニャは、不安そうに前を向いている部下の耳元にもう一度口を近づけた。
「前に、ハドルが居るわ……」
アーニャに言われて部下が確認すると、だんだん減っていく人通りの向こうに、確かにハドルらしき人影があった。
アーニャ達と同じ方向に進むその人影は、アーニャ達に気付いていないようだった。
部下にはその人影がハドルなのかどうか判断がつかなかったが、アーニャのただならない雰囲気に緊張し、小さく頷いてさらに歩調を緩めた。
「もう近いの?バド=ティリタイの家は……」
お互いに前方を向いたままで、アーニャは小さく尋ねた。
部下が大きく頷くのを確認して、そう、と小さく呟いたアーニャは、
「あなたは王宮へ帰りなさい……。このランプを持って行って……」
そう言って、自分が掲げていたランプを部下に手渡した。
部下は何か言いたげにアーニャの横顔を見たが、ハドルから視線を逸らそうとしないアーニャを見て、何も言わずに次の路地を左に入っていった。
部下と別れた後、アーニャは暗くなっていく路地でハドルを見失わないように気をつけながら、その後を追った。
なるべく気配を消しながら、頭の中で状況を整理する。
後ろ姿しか見えないが、灯りも持たずに早足で歩いている前方の男は、ハドルに間違い無いだろう。
ここまで来てハドルの姿を見つけられたのは、幸運だったのかもしれない。カフェに尋ねるまでも無く、バドが怪我をしたのはハドルの差し金だろう。そうでなければ、ここでハドルを見かける理由が無い。
そしておそらく、目の前のハドルは今夜中にカフェ=ティリタイが使者としての役目を果たせないようにする目的で、ここまで来たはずだ。
まだ、手遅れにはなっていない。
なんとかしてカフェ=ティリタイを逃がし、明日、国使として王宮に連れて行けば、とりあえずはアーニャの勝ちになる。
ハドルは迷う様子も無く、どんどん歩いていく。
中心街から離れるにつれて、アーニャがすれ違う市民の数も減っていった。人通りが少なくなると、尾行は難しくなる。
アーニャは家と家の間の隙間に身を隠しながら、ハドルの後を追う事にした。
ハドルが角を曲がるたびに、人通りは減っていく。
自分自身がハドルの罠にはめられている可能性も考えながら、アーニャは周囲に気を配りつつ尾行を続けた。
やがてハドルが立ち止まったのは、一軒の家の前だった。
中心街からは距離があるが、一般的な居住区。
同じような構造の家々が密集して立ち並んでいる中で、ハドルが見上げている家は他と比べて多少簡素なものに見える。
周囲にはもはや人影は無く、締め切られた家々の窓からは僅かに光が漏れていた。
建物の影からハドルを観察していたアーニャは、ハドルが尾行に気付いていないらしい事に安堵しながらも、次に自分が打つべき手が浮かばずにいた。
ハドルが見上げているのがバド=ティリタイの家だとすれば、予想していたよりも中心街から離れている。この地区では、次の朝が来るまで人通りは無さそうだ。
ハドルがこの場でカフェ=ティリタイを襲うつもりなら、自分だけでは守りきれない。
かといって、ハドルに気付かれずにカフェ=ティリタイを逃がす自信も無い。
ハドルに気付かれることを前提としてカフェ=ティリタイを逃がし、多少の怪我は覚悟で自分がハドルを足止めするのが、結局は最善の方法のように思える。
一瞬、もうカフェ=ティリタイを見殺しにして新しい使者をカッパラに要請しようかとも思ったが、ハドルがカッパラから婿を取る計画を知っているなら、どうせまた邪魔されて無駄になる。
ハドルが家の外壁をよじ登り始めたのを見て、アーニャは呼吸を整えた。
結局、その日の夕食は手軽に作れるもので済ませる事になった。
アリガンは久しぶりの街ということもあり、何か凝った料理を作ろうと考えていたのだが、カフェが今日は早めに休んだ方が良いと主張したからだ。
食卓に並んでいるのは、砂漠で食べるのとあまり変わらないメニューと、市場で買ってきた新鮮な果物。アリガンは果物の皮を剥こうとしたが、怪我人はおとなしくしていなさい、とカフェに優しく叱られてしまった。
バドが居ない夕食は、いつもと変わらない賑やかさではあったけれど、アリガンにはどこか寂しく感じられる。
それでも、砂漠での食事よりは開放感があるからか、アリガンもカフェもどこか楽しそうだった。
夕食の片づけを終えた後、アリガンとカフェは椅子に座って、どちらからともなく話し始めた。
「終わったね」
「ええ、色々ありましたけど……。明日で終わりです」
「怪我、ゆっくり治そうね」
「……はい。ありがとうございます。でも、放っておけば治りますから……」
「もう……」
他愛の無い会話をしながら、二人はゆっくりと流れる時間を過ごした。
ランプの灯は小さく弱く、部屋の中は薄暗い。火が作り出す光はどこか暖かい色をしていて、ランプに照らされたカフェの顔は昼間に見るよりもずっと優しいものにアリガンには見えた。なかなか寝室へ行こうとしないカフェだったが、アリガンはカフェが話し疲れるまで相手をしようと思っていた。
カフェは途切れ途切れにゆっくりと、色々なことを話していたが、やがてお互いに無言の時間が増えていった。アリガンにとってその時間は苦痛ではなく、むしろ居心地が良い。目の前で黙っているカフェの表情も、アリガンには穏やかなものに見えた。
そんな時間が十秒ほど流れたとき、カフェがまた、口を開いた。
「本当はね……。父様が居ない旅、怖かったの。分からない事も多いし、それに変なことも何回かあったし……。アリガンが怪我した時だって、どうしていいのか分からなくて。でも……。ちゃんとトルクォルに来れたのは、アリガンのおかげだと思う。……ありがとう」
一言一言に感情を込めて、カフェはゆっくりと言った。
その表情は微笑と呼ぶべきものだったが、アリガンにはどこか寂しそうなものに見える。真っ正面から礼を言われて、アリガンはどうしていいかわからず、とりあえず小さく、はい、とだけ答えた。
「……じゃあ、私、寝るね。おやすみ」
「はい……、おやすみなさい」
カフェは気分を変えるように全身で軽く伸びをして、薄暗い部屋の中を手探りで階段へと向かった。ランプから離れるにつれ、カフェの姿が見えなくなっていく。その背中を見送りながらアリガンは、なぜかそのままカフェを二階へ上がらせてはいけない気がした。そして次の瞬間。アリガンは理由を考えるよりも先にカフェの手首を掴んで引き寄せていた。
「えっ……?」
驚いて小さく声を上げるカフェ。
少し強く引っ張られたためにバランスを崩して、カフェはアリガンに背中から抱きかかえられる形になった。
と、そこへ玄関の扉が勢いよく音を立てて開かれた。
「逃げてっ!」
閂がかけられた扉を蹴破って中に入ってきたのは、まだ若いが大人の女性だった。
予想外の事に身をすくめるだけのカフェを庇うように女性と対峙したアリガンを見ながら、女性はすぐに短剣を抜いて構えを取った。
室内に居たアリガンはほとんど丸腰に近い。それでも腰のベルトに仕込んでいたナイフを左手で抜き、厳しい目で女性を睨む。
女性は一瞬アリガンに襲いかかろうとしたようだったが、その動きは途中で止まる。
「あなた、カフェ=ティリタイの敵?味方?」
厳しく、いつでもアリガンを殺せる構えを崩さずに尋ねる女性。アリガンは状況が理解できないながらも、味方だ、と答えた。
次の瞬間、女性がいきなり短剣を投げつけてきた。
とにかくカフェを引きずり倒し、自分も身をかがめるアリガン。そして、薄暗い部屋の中に金属音が響いた。
「とにかく逃げなさい!」
金属音はアリガン達の背後、階段付近からのものだった。
女性は新しく小ぶりなナイフを抜きながら、地面に伏せているアリガン達を飛び越えた。
女性の先には男が居る。
男は階段から降りてきたらしく、女性の短剣はその男に向けて投げられたものらしかった。
「早く!」
女性は男と対峙したままで、後ろの二人に怒鳴りつける。
意味がわからないまま、それでもアリガンはカフェの手を引いて走り出す。女性が蹴破った扉を抜け、暗い夜道をとにかく走った。
とにかく、カフェ=ティリタイは逃がした。後はなるべく時間を稼ぐだけだ。
目の前のハドルは狭い階段に立っている。階段の左右は壁で動けない。後方に退くか、前方に出て襲ってくるか。
覆面の奥に覗く目からは多少の怒りが感じられるようにも思えたが、おそらく無表情なのだろう。
アーニャは唯一になってしまった武器のナイフを右手に握りしめながら、ハドルの次の出方を待った。
「……なぜ、邪魔をする?」
構えらしい構えも見せずに、ハドルが尋ねてきた。
アーニャが自分に勝てるわけがないと考えての態度だろうか。
アーニャはその言葉を無視しようかとも思ったが、受け答えのぶんだけ時間が稼げると考え直して、
「あなたが、敵だと知ったからよ……。じゃなきゃ、こんなことするわけないわ」
冷静を装って、ゆっくりと答える。だが、アーニャが時間を引き延ばすまでもなく、ハドルは持っていた短剣を鞘に収めた。
「今日は、もういい……。場合によっては、お前を殺すぞ」
どこか面倒臭そうな口調で言い捨てると、ハドルはアーニャに背を向けて二階へと去って行った。この状況で背を向けるハドルに攻撃を仕掛けたい欲求に駆られながら、自分では勝てないであろう事がアーニャにははっきりと予測できる。
拍子抜けするほどあっさりと引き下がっていくハドルの背中を睨みつけながら、アーニャはカフェ=ティリタイの行く先を探して保護する手段を考えていた。
「申し訳ありません、乱暴に……」
バドの家からかなり離れた路地で、アリガンは荒く息を切らしているカフェに謝った。
周囲は真っ暗で、背の低い建物が立ち並んでいる。
ここは主に貧しい人々が寝泊りする地区で、トルクォルには何度も来たことがあるカフェも、この地区に足を踏み入れるのは初めてだった。
今は追っ手の姿も気配も無い。
アリガンは走りながらこの状況について考えたが、逃げ出す直前に見た階段に居た男はキャラバンで自分達を襲ったあの男だったように思う。
扉を蹴破ってきた女性にはアリガンは見覚えが無かったが、どうやらカフェを男から逃がそうとしていたらしかった。
「すみませんお嬢様、走りすぎました。大丈夫ですか?」
「うん……、大丈夫、だけど……」
まだ息を切らしながら、カフェは苦しげに答えた。アリガンはカフェの呼吸が落ち着くのを待って、再び歩き出した。
「トルクォルも、あんまり安全では無いようですね」
「うん……。あの人達、何だろう?」
「……おそらく、男の方はあの、キャラバンで襲ってきた男です。女性の方には見覚えがありませんが……。お嬢様を男から守ろうとしていたように見えました」
やや急ぎ足になりながら、アリガンはカフェの手を引いて歩いた。不安なのだろう、カフェはずっとアリガンの手を握って離さなかった。
「じゃあ……、私が狙われてたんだよね?」
「はい。……おそらく、カッパラからの使者が到着しては困る者が居るのでしょう。例の宰相かもしれません」
カフェの縋る手を強く握りながら、アリガンは答えた。
「大丈夫です。親書さえ届ければ、宰相一人に手出しできるものではありませんし……。狙う理由も無くなります。大丈夫です」
そう言いながら、アリガンはカフェの手をもう一度、強く握って安心させようとした。
命を狙われた経験など、カフェにとってはほとんど初めてだろう。カフェの不安と恐怖が、握った手からアリガンにも伝わってくるようだった。
カフェは早足で歩くアリガンの後を、ほとんど小走りになってついていく。
「アリガン、どこに行くの……?」
尋ねるカフェの声が、震えている。その声を聞いて、アリガンは立ち止まった。
さっきから、自分の振る舞いに余裕が無さ過ぎた事に気付いて、アリガンは申し訳ないという気持ちで振り返った。
なるべくゆっくりと、穏やかな声になるように意識して、不安そうなカフェに答えた。
「今日は、家には帰れません。……あの女性がどうなったかも、わかりません。王宮の人間が、誰も知らない場所に、今は隠れるべきです」
怖がらせないように優しくカフェの手を引きながら、アリガンはゆっくりと歩き出した。
「こっちです。すぐ近くです」
そう言いながら、アリガンは狭い路地を何度か曲がって進んでいった。
歩いているうちにカフェは少しずつ落ち着きを取り戻したようで、アリガンの本来のペースに合わせて少しずつ早足になる。
やがて一軒の家の前でアリガンが立ち止まり、ここです、とカフェに示した。」
アリガンが指差していたのは、壁の所々が欠け落ちている家の扉で、この地区にならいくらでもある、普通の家のようだった。
アリガンはその扉を軽くノックして反応を待ち、数秒してから、中から男の声が聞こえてきた。
「……誰だ?」
「俺だ」
ごく短いやり取りの後で、扉は意外なほどすんなりと開けられた。
扉の中には一人の青年の姿があり、青年は警戒心を少し残したままの表情だった。
「アリガンじゃねぇか。珍しい。ま、入れよ」
「助かるよ」
「……なんか、ワケありか?そんな譲ちゃん連れて」
「ああ。とにかく中に」
青年はアリガン達を招き入れて扉を閉め、閂を二本かけた。
部屋はそれほど広くはないが、そのぶんランプが明るく感じる。部屋の中央には不釣合いに大きなテーブルがあり、いくつかの椅子もある。
アリガンは適当な椅子をカフェに勧めて、自分も適当な場所に座った。青年は突然の来客に驚いた様子もなく、腕を組みながら扉の近くの壁にもたれていた。
「で?とりあえず説明してくれないか」
「ああ。……お嬢様、彼は、グランです。何度かお話ししたかと思いますが、私の……友人です」
アリガンに紹介されて、カフェは小さく会釈した。グランは眉を上げて、おどけた表情を作ってそれに応える。
「そしてこちらが、バド=ティリタイ様のお嬢様の、カフェ=ティリタイ様だ」
「ああ、なるほど。美人だな」
「……それで、用件なんだが。数日、ここで匿ってくれないか」
緊張した面持ちで言うアリガンを見ながら、グランは数秒、黙ったままで腕を組んでいた。そして不安そうな表情のカフェとアリガンを何度か交互に見てから、軽く頷いた。
「構わんが、ちゃんと説明してくれよ」
そう言ってグランは戸棚からカップを二つ取り出して水を注ぎ、二人の前に置いた。
第五章
「……つまり、嬢ちゃんが命を狙われていて、ついさっきも襲われたと。で、俺んとこに来た、と。それでいいんだな?」
「そうだ」
三人でテーブルを囲みながら、アリガンはグランに今の状況を説明していた。
緊張しているカフェを気遣ってだろうか、グランがランプを一つ追加したため、部屋の中は明るい。
カフェはアリガンとグランの会話にほとんど口を出さなかったが、話を聞いているうちに多少は落ち着いたようだった。
「で、その敵ってのが、宰相が怪しいけどまだわからない状況、と?」
「そうだ。それともう一人、味方かもしれない女性も。王宮内でも使者を待っている者と来てほしくない者が居る、という事だと思う」
グランは小さく何度か頷きながら、カップの水を一口飲んだ。
何かを考えているような眼差しは鋭く、それを見たアリガンはグランの次の言葉を待つ事にした。
「……最近の噂じゃ、お前の言う通り、宰相のゴルと姫が結婚するって話だ。他国から婿を取るって話もあったが……。今じゃあまり聞かない」
「その、宰相と姫との結婚の話は、どれくらい具体的なんだ?」
「国内の有力者のうち多くが、賛成してるって聞くけどな。でも宰相には黒い噂があって……。市民の間じゃ歓迎って感じじゃないな」
「誰かに頼ることもできない、か……。その、黒い噂というのは?」
「刺客を出す、とかな。とにかく運が良すぎる。あるいは実力がありすぎる。そういう男に、裏がありそうだと思うのは自然な事だろうな」
なるほど、と呟きながら、アリガンは考えを整理するために少し黙った。
旅の途中、キャラバンが妙な盗賊に襲われたときから、薄々は怪しいと思っていた。
だからこそ夜警も怠らなかったし、なるべくカフェの身辺から離れる事の無いように気を付けてきた。
アリガンの右肩に傷を付けたあの男のことも忘れてはいなかったが、トルクォルに入ってしまえば安全だと考えていた。
「キャラバンで襲ってきた男と、さっき襲ってきた男、確証は無いが、同じ男だと思うんだ。宰相の近くに、そういった男が居るって話は聞いた事があるか?」
「さあ……?わからんが、まだ宰相の指示と決まったわけじゃないだろ?それより、味方の女は誰だかわからんのか?そっちを頼った方がこの国の中じゃ安全だと思うが」
「それが、分からん、服装からして、王宮の者の可能性は高いと思うが……」
「あの……」
アリガンの言葉を遮って、ずっと黙っていたカフェが声を上げた。
「その女の人なんだけど……。たぶん、姫様の侍女の人。話したことはあんまり無いけど、顔はお互いに何回か見てるから……」
カフェはおずおずと、自信無さ気にそう言った。
その言葉を聞き、アリガンはハッとしてグランを見る。グランも、アリガンの視線を受け止めて小さく頷いた。
「それは……。間違いありませんか?」
「顔は同じ人。声も似てたよ」
「……確かめる価値はありそうだな。アリガン、どうする?」
グランの言葉を受けて、アリガンは少しの間、考え込んだ表情を見せた。そして、今すぐには結論を出せないから、と前置きして、
「今日はとりあえず、休もう。今夜動くのは危険だ」
そう言って、グランにカフェが寝る場所を作ってくれないかと頼んだ。
いいぜ、と立ち上がったグランが案内したのは、地下室だった。部屋の隅に掘られた階段から、降りることができる。
地下室の天井は低く、狭い空間だったが、頻繁に使われているのか、空気が澱んでいるといったことは無い。
グランが持つランプに照らされた部屋の中にはベッドが無かったが、部屋の隅には毛布が何枚か畳んで置かれている。
「好きに使ってくれていいぞ。飲み食いも、アリガンの判断に任せる。……他に何か必要なら、言ってくれ。無理なら無理って言うからよ」
「助かるよ」
「ありがとう」
アリガンとカフェがそれぞれ礼を言うのを聞きながら、グランはランプを置いてさっさと階段を上がっていってしまった。
アリガンは毛布を広げてカフェの寝る場所を作り、立ったままのカフェに座るように勧めてから、自分もカフェの隣に座った。
カフェはおとなしく、アリガンの言う通りにしていた。
「今夜はさすがに驚きましたね。ここは安全ですから、今日はとりあえず休んでください」
なるべくいつも通りの調子を装って、アリガンはカフェに笑いかけた。
多少落ち着いたとはいえ、カフェの不安そうな雰囲気がアリガンには伝わってくる。
何とか安心させて、カフェに休んでほしかった。
カフェもそんなアリガンの気遣いを感じてか、少し、元気そうに振る舞うだけの余裕が戻ったようだった。
「うん、そうする。……アリガン、ごめんね?無理させちゃって」
「いえ、そんな。大丈夫ですよ。……さ、もう、お休みになってください」
そう言って立ち上がり、アリガンはランプに手をかけた。カフェがもぞもぞと毛布の中へ入るのを見て、ランプの灯を吹き消す。そして、
「お願い……。もう少しだけ、居て。……少しで、いいから……」
背後に聞こえたカフェの声が、アリガンにはとても弱弱しいものに感じられた。
ランプを階段に置いて、アリガンはもう一度、カフェの枕元に座り直した。
階段の上から漏れてくる薄明かりの中、アリガンはカフェが眠るまで、何も言わずにそこに居た。
ハドルが姿を消してから、アーニャはバド=ティリタイの家の周辺を見回った。
カフェ=ティリタイともう一人の少年がまだ近くに居れば、という希望からの行動だったが、二人は遠くまで逃げたらしく、何の手がかりも見つけられなかった。
徒労に終わったと考えてしまう自分を、死体を見付けずに済んだのだから、と慰めて、アーニャは王宮へと帰る事にした。
カフェ=ティリタイを逃がすことができたのは、一応は喜んで良いだろう。
どうやら一人、従者か何かの少年が居るようだが、それは特に問題無い。
ハドルの存在は厄介だが、裏を掻かれる直前に知ることができたのは幸運だった。
宰相が自分達の動きを知っているなら、もう隠れる必要も無い。次にどう動くべきか……。
次々と頭に浮かんでくる考えを整理しながら、アーニャは無意識のうちにかなりの早足で王宮へと向かった。
来たときの半分の時間で姫の部屋へ到着すると、数名の部下と姫が心配そうにアーニャの帰りを待っていた。先に戻らせた部下が状況を説明したらしく、皆がアーニャの無事を祈っていたらしい。
自分の帰りを心から喜んでいるらしい部下と姫を見ながら、アーニャはなんとなく、苦笑したい気分だった。
「ただいま戻りました。……姫様、少しお話ししたいことがあるのですが……。皆も一緒に、です」
「ハドルの事?」
「それもあります」
小さく頷いて、姫はテーブルについた。アーニャも姫の隣に座り、部下の侍女達もそれぞれ席に着く。
皆、先ほどの不安そうな顔から、緊張の面持ちへと変わっている。アーニャは全員の視線を受けながら、今の状況を説明し始めた。
まず、ハドルの存在。そして、ゴルがすでにカッパラからの使者の存在を知っているであろう事。
カフェ=ティリタイが今は無事であると思われる事と、少年が一人居ること。カフェ=ティリタイの居場所がわからないこと。
話しているうちに気が重くなることが多かったが、アーニャは冷静に説明を終えた。
「だから明日からは、とにかくカフェ=ティリタイの保護を急いでほしいの。私がハドルの邪魔をしたから、ゴルは何かしら動くはずよ。切り札は、今はカフェ=ティリタイだけ……。いいわね?」
侍女たちに向けて念を押すと、それぞれが力強く頷いた。
姫はアーニャの説明の間、ずっと静かに話を聞いていたが、何か言いたそうな様子を見せていた。
「じゃあ、決まりね。今夜はカフェ=ティリタイも動かないでしょうし、みんな休んで。明日から、忙しくなるわ」
その言葉を合図に、侍女達は席を離れて部屋を出て行った。
部屋の中には、姫とアーニャの二人だけが残っている。姫が何かを言いやすいように、アーニャはわざと隙を作った。
「アーニャ……。お願いがあるの」
「はい、何でしょう?」
「わがままなのはわかってるつもり……。でも、お願い。カフェさんを、死なせないで。お願い……」
姫の表情も、声の調子も、その真摯な気持ちを伝えてくる。
何と答えたらいいのだろうか。
アーニャは一瞬、適切な言葉が見つけられなかった。
姫が何かを要求したり、主張したりするのは珍しいことだった。アーニャと侍女達が先回りして何でもやってしまうからというのもその理由の一つだったが、姫自身が溜め込みやすい性格だからだとアーニャは考えていた。
そんな姫の、この言葉。
アーニャは胸が痛むのを自覚していた。
「……もちろんです。そのために全力を尽くしますし……」
見殺しにもしません。
そう言おうとしている自分に気付き、アーニャは口を噤んだ。
無理して笑顔を作ってみせたが、姫とアーニャはその無理を見抜けない程度の関係でもない。
「……カフェさんは、使者じゃない。使者だけど、でもその前に、カフェさんだから……。代わりなんて、居ないから……」
「……はい、その通りです」
平静を装ってそう答えながら、アーニャは姫の言いたいことが、少し理解できた気がした。
「問題が発生しました」
王宮の奥、ゴルの私室。ハドルは机に向かって何か仕事をしているらしいゴルの背後から、いつものように報告を始めた。
ゴルはすぐに振り向いて、続けろ、とだけ言った。
「姫の侍女長が、妨害を仕掛けてきました。そのためカフェ=ティリタイを逃がしました。どこかに潜伏しているか、国外に出たかは不明です」
ごく短く、ハドルは報告を終えた。ゴルは小さく頷き、少しの間、考え込んだ表情で黙っていたが、やがて普段通りの口調で話し出した。
「侍女長に知られているなら、もう猶予は無いな。カフェ=ティリタイはラクダや旅道具を持って逃げたのか?」
「いえ、全く。例の、若い男と二人で、特に何も持たずに」
「そうか」
二人はそのまま、しばらく黙っていた。お互いに、何かを考えているように。
そして、先にその沈黙を破ったのはゴルだった。
「兵を、使うか」
小さく、ポツリと言ったその言葉は、独り言のようにも聞こえる。しかし、同じ考えが、ハドルの頭にも浮かんでいた。
「では……手配を?」
「ああ。もう、侍女長から隠れる必要も無い。……行ってくる」
ゴルはそう言って立ち上がると、部屋から出てどこかに歩いていった。
夜が明けるよりも少し前、グランが家に戻ってきた。
出かけてくる、とだけアリガンに言い残して、グランは夜中に家を出ていた。
グランが何をしてきたのか、アリガンには想像がついたが、その事については特に何も言わなかった。
「おう、ずっと起きてたのか?」
「いや、少し寝た。……お嬢様はよく寝てる」
グランはあまり興味無さそうに、そうか、とだけ短く答えて、アリガンの隣の椅子に座った。寝ているカフェへの配慮か、小さな声で話し出す。
「まずいぞ、お前ら。手配されてる」
「……本当か?」
言葉だけは冷静に聞き返しながらも、アリガンは苛立ちを自覚していた。
「兵は少し増えた程度だけどな。通達は明日の昼までには行き渡ると思うぞ」
「罪状はどうなってる?」
「王宮からの呼び出しの役人に対し、攻撃を加え、逃走した罪。及び、国使を騙った疑い、だそうだ。物は言いようだな」
グランの言葉を聞きながら、アリガンは内心、自分達が追い詰められつつあることを実感していた。
罪状の表現は的確ではないが、完全なでたらめというわけでもない。カッパラ王の親書は相変わらずカフェが持っていたが、今この親書にどれほどの意味があるのか、あまり期待はできそうにない。
「どうする?しばらく潜伏するか?」
「ああ……。とにかく今日は外に出ない事にするよ。……すまない、迷惑をかけて」
「いや、それはいいんだけどよ。……何とかしなきゃまずいだろ。今はとにかくそれを考えようぜ」
事も無げにそう言って、グランは朝食の準備を始めた。
もうすぐ夜が明ける。本当はこの日、使者として王宮に出向くはずだったが、今はそれどころではなくなっている。
深く溜め息をつきながら、アリガンは今後の事を考え始めていた。
絶望的な気持ちで、アーニャは部下からの報告を待っていた。
昨夜のうちに、カフェ=ティリタイとその従者が手配されていた。
まだ見つかったという話は聞いていないし、部下からも特に新しい情報が報告されることは無い。
人数で圧倒的に劣っているアーニャ達はともかく、兵や役人にも見つけられないということは、カフェ=ティリタイは昨夜あのまま国外へ出たのかもしれなかった。
すでに時刻は昼に近い。カフェ=ティリタイが国外へ逃げたのだとすれば、もはやアーニャ達に打てる手は限られていた。
今、姫の部屋にはアーニャと姫の二人だけだったが、雰囲気はどこか重苦しい。ただ吉報を待つだけの状況の中、アーニャは何か変化が起きることを願っていた。
そのとき、部屋の外から何か会話しているような声が聞こえ、すぐに扉が開かれた。取次ぎの侍女が緊張した面持ちで部屋に入ってくると、硬い声で、
「ゴル様が、いらっしゃいました。お一人です。姫様に、お話ししたいことがあると……」
と言った。
「そう……。姫様、どうなさいますか?」
ゴルがやってきた事には多少驚きながらも、アーニャはこれも良い機会かもしれないと思った。現状ではカフェ=ティリタイを探す以外にできる事は無いし、ゴルの出方によっては次に打つべき手も変わってくるかもしれない。
「会うわ……。アーニャにも同席してもらうことと、準備のために少しお待ちいただくよう、伝えて」
「はい」
姫は不安げではあったが、取次ぎの侍女にははっきりとそう伝えた。侍女が出て行った後、姫はアーニャに手伝われながら服装や髪の乱れを整えた。
アーニャも姫も、互いに無言で準備をしていたが、作業を進めるアーニャの右手を、姫が不意に、掴んで止めた。
「アーニャ……。私、今からもっと、アーニャに……、みんなに、迷惑かけるかもしれない。わがままだとは思う。でも……。許して。お願い」
そう言う姫の目が、力強くアーニャを見つめている。
アーニャの右腕を握る姫の手にも、しっかりと力が込められていた。
これほどはっきりと何かを言い切った姫を、アーニャは見たことが無い。右手を掴む姫の手に、掴まれていない左手を添えて、
「はい。ご安心ください」
そう言って、自然と笑みを浮かべることができた自分に、アーニャは少し、驚きを感じた。
「じゃあ……、ゴルを、呼んで来て」
「はい」
アーニャの答えと笑顔に安心したのだろうか、姫もまた、薄く笑顔を浮かべていた。
姫がテーブルについたのを確認してから、アーニャは扉を出て、部屋の外で待つゴルを招き入れた。
「お待たせいたしました」
「いえ、いきなり押しかけてきて、申し訳無い」
「では、こちらに」
ゴルのアーニャへの対応はあくまで丁寧で、立場の違いさえ無ければ好感を持ってもおかしくないものだったが、今のアーニャにはゴルのその完璧さが気にくわない。姫が待つテーブルへとゴルを先導しながら、アーニャは自分の未熟さを少し恥じた。
テーブルについている姫はゴルとアーニャの姿を見ると、先ほどまでの様子からは想像もできないほどのにこやかな笑顔を作ってゴルを招いた。
「ようこそ。急な事で、何の準備もありませんが……。どうぞ、お座りください」
「いえ、私の方こそ事前にご連絡も差し上げず……。では、失礼いたします」
ゴルもまた、曇りの無い笑顔で姫に応じ、アーニャが引いた椅子にゆっくりと腰を下ろした。アーニャはそのまま姫の斜め後ろに移動して、無言でその場に立っていた。ゴルはアーニャが同席する事について不満は無いのか、姫の後ろに控えているアーニャを見ても嫌な顔ひとつ見せずに話を始めた。
「早速ですが……。単刀直入に申し上げます。以前の、私からの求婚の件について、お考えいただけたでしょうか?」
思わずアーニャが反応を示してしまいそうなほど、ゴルは率直に話を切り出した。
細かい駆け引きなどはせず、早々に話をまとめるだけの自身があるのだろうか。
アーニャの位置からでは、姫の顔は見えない。務めて無表情を維持しながら、アーニャは姫を見守った。
アーニャの不安を他所に、姫は少しの間を置いてから、ゆっくりとゴルに答える。
「お気持ちは、嬉しく思います。しかし私は今や、一人の女性として、自分だけの判断で物事を決められる身ではありません。今はじっくりと、父の……前王の遺志に沿う方を、見極めるべき時だと考えています」
「ですが、王の空位が長引くほど、国民の心は乱れ休まりません。……どうか、お早い決断を」
ゴルはゆっくりと、諭すようにそう言って、姫に向けて深く頭を下げた。その様子からは、わざとらしさが感じられず、アーニャはどこか、ゴルを憐れに思った。
ゴルの国民に対する愛情の深さを、アーニャは前王の時代に何度か見てきた。
この男に姫は、どのように対応するのか。口出ししたい気持ちを押し殺して、アーニャは姫を見守った。
「お顔を、上げてください……。おっしゃる通り、なるべく早く、結論を出そうとは考えています。ですが、そのために間違った決断を下すことも、絶対に避けなければならないと考えています。……今日はこれで、お引取り願います」
「そうですか……。では」
そう言ってもう一度頭を下げた後、ゴルは静かに席を立った。
アーニャが開けた扉を出る前、姫に向けて、
「また、来ます」
と言って深く礼をし、出て行った。
廊下でゴルを見送ったアーニャが部屋に戻ると、姫は大きく伸びをしている。ふぅ、と一つ、大きく息を吐いた姫の顔が、アーニャには少し、頼もしく見える。
「お疲れ様でした。……ご立派だったと思います」
自然と、そんな言葉が出た。
姫は照れたような笑顔で、ありがと、と言ったが、すぐに表情を引き締めた。
「今日はこれで帰ってくれたけど、あの話の切り出し方……。やっぱり、こちらが何もせずに待っていればゴルの思い通りになる気がするの……。アーニャ、早く、カフェさんを見つけないと」
「はい……。もちろんです」
アーニャは姫の力強い言葉を聞きながら、次の事を考え始めていた。状況は、何も変わっていない。それでも、少しだけ気持ちが明るくなってはいた。
望みを捨てず、できる限りのことをしようと、アーニャはもう一度決心した。
昼食の後、あまり食欲の無かったカフェは、少し休むと言って地下へと降りていった。
朝食の後にアリガンが自分達が手配されていることを伝えた時から、かなり落ち込んでいるのが目に見えてわかった。
アリガンはそんなカフェを何度か励ましたが、今の状況で元気を出せと言うことの無意味さも頭では理解している。しばらくそっとしておこうと考えて、それからはアリガンは何も言わなかった。
地下室へと下りていくカフェを見送った後、テーブルについたアリガンはグランに、話がある、と前置きしてから、
「姫の侍女に、会いに行こうと思う」
と切り出した。グランは驚いた様子も見せず、ふぅん、とだけ反応した。
「このまま国外には出られない。トルクォル内で頼りにできる人物も、今は見極める手段が無い。あの、姫の侍女なら、俺達よりは状況を知っているはずだ」
「そりゃ、そうだろうな」
「それで……、グラン、武器と、できれば王宮内の様子が知りたいんだが……」
アリガンとグランは、少しの間、互いに無言で相手の目を見ていた。
グランの目はアリガンが本気かどうかを見極めようとしているのか、鋭い。
一呼吸の後、グランは目を逸らして小さな溜め息をついた。
「……今夜までに準備できればいいな?」
「助かるよ。……礼はいつか、させてもらう。必ず」
そう言って、アリガンは深く頭を下げた。グランはいつも通り、興味無さそうな様子だったが、何かを思い出したように、
「嬢ちゃん、置いてくつもりか?」
と、質問した。
「ああ、危険だからな。もしもの時は、バド様の所まで、送ってくれないか。俺の友人だと言えば、バド様には分かる」
グランはもう一度、今度は大きく溜め息をついた。責めるような目でアリガンを睨んで、
「そんな問題じゃないだろ。出て行くことも、危険なことも、必ず戻るって事も、全部言ってやれ」
「しかし……。あまり心配させるのも……」
「言わない方が心配かけるだろうが。……ちゃんと、お前の考えを教えてやれ。いいな」
珍しく、グランは厳しい口調でアリガンにそう言った。グランに気圧されて、アリガンは少し困惑したが、
「ああ……。考えておくよ」
と、煮え切らない答えを返してしまった。グランは少しだけ呆れたというような表情をして見せたが、この事についてはそれ以上何も言わなかった。
「武器は、どんなのが要るんだ?あと、他に特別必要な物も、あれば言ってくれ。調達してくる」
「そうだな、まず……」
アリガンがいくつかの要望を伝えると、グランは時々質問を挟み、そして全てを聞きだすと、すぐに家を出て行った。
文句も言わずに頼みを聞いてくれるグランに深く感謝しながら、アリガンはおとなしく、家の中で待つことにした。
グランに言われた通り、アリガンはカフェに話すべきことを話そうと思ったが、地下室の様子を見に行くと、カフェはうつ伏せで眠っている。起こすのは悪いと思い、アリガンは静かに地下室を後にした。
今はアリガンにできる事は何も無い。今夜に向けて、少し眠っておこう。
そう考えて、アリガンは椅子の背もたれに体重を預けた。
第六章
夕方になって、グランが帰ってきた。
グランを待つ間、アリガンは何度か浅い眠りと覚醒を繰り返していたが、カフェは一度水を飲みに来ただけで、ずっと地下に居た。アリガンはなんとなくカフェに話しかけるきっかけが掴めず、結局、王宮へ行く事はまだ伝えられていない。
「色々と持ってきたぞ」
そう言いながらグランは、テーブルの上に抱えていた荷物を広げ始めた。短剣が数本と、肉厚のナイフ、投擲ナイフなど。そして覆面と、濃い緑色の服。
ナイフや短剣は金属部分が音を立てないように皮製の鞘とベルトに入れられていて、身につけて動いてもほとんど音がしない仕様の物だ。必要とする人種が少ないぶん、普通は手に入らないこれらの武器を、グランはテーブルの上に適当に並べて、
「好きなのを持って行け」
と言って椅子に座った。そして、懐から一枚の紙を取り出すと、ランプの傍でその紙を広げた。
「これが一応、王宮の見取り図だ。もちろん正式なものじゃない。でも大まかな位置関係を確認するのには役に立つはずだ」
一緒になって紙を覗き込むアリガンに、グランは説明を始めた。
「まず、ここが姫の部屋。で、侍女の部屋がその横、ここだ。さすがにこの辺まで忍び込んだ奴は居ない。盗むものが無いからな」
「……なるほど。この場所までなら分かる。バド様に同行した時に入った」
記憶の中のトルクォル王宮を思い出しながら、アリガンはどうやって潜入するかを考えた。
「警備は、普段ならそんなに厳しくないはずだ。今はお前らが手配されてるから、ひょっとしたら少し兵が増えてるかもな」
「……姫の部屋か侍女の部屋には、窓があるよな?」
「もちろん。でも夜は厳重に閉じられてるだろ?」
「ああ。……だからこそ、窓側に警備は置かないはずだ」
図面を見たまま、アリガンは答えた。
あの侍女か、それとも姫か、とにかく部屋の中の人間が窓を開けてくれればすんなりと中に入れる。他には正面からの入り口しか無いが、こちらには常時警備の兵が配置されているだろう。
「じゃあ……。決まりだな?」
「ああ。あの侍女の部屋さえわかれば、あとは何とかするよ。グラン、助かった」
「気にすんな。……帰ってきたらこの図面の間違い、修正してくれ」
そう言ったグランの言葉に、アリガンは苦笑しながら了承した。もちろん、冗談だと思いながら。グランもそのつもりだったらしく、わざとらしい苦笑を作ってみせた。
「嬢ちゃんには、ちゃんと言ったか?」
「いや……、まだだ」
困った顔で答えたアリガンに、やれやれといった顔をしたグランは、
「俺は、知らねぇぞ」
とだけ言って、水を飲みに立った。もう少しグランが怒るかと思っていたアリガンは拍子抜けしながらも、いくつかの武器の状態を確認し、今夜持って行くものを選んだ。
外ではもう、陽が落ちかけている。今の時間が、誰かから隠れて街を歩くには最適だ。
「グラン、今から行ってくる」
必要な物だけをまとめて抱え、アリガンは言った。頭からは日よけ用のフードを被り、顔を隠している。
「もう行くのか。……とにかく、死ぬなよ。それだけだ」
「もちろんだ。でも、もしもの時は……。頼む」
「わかってるよ」
早く行け、とでも言うように、グランは手を振りながらそう言った。
義理堅いこの男に感謝しながら、アリガンは王宮へと向かった。
カフェ=ティリタイを探し続けて、丸一日が過ぎようとしている。
アーニャは数名の部下を集めて姫の部屋で報告を聞いていた。アーニャの隣には、姫も同席している。姫は沈んだ表情ではあったが、侍女達の報告を一つ一つしっかりと聞いていた。
「やはりカフェ=ティリタイは、兵にもまだ見つかっていないようです。けれど、バド=ティリタイの家にあった道具やラクダは王宮で保管されていますし、今日国外へ出た者は厳しく調べられているそうなので……。兵達はまだ国内に隠れていると見ているようです」
「私からも、報告が。今日、バド=ティリタイと懇意だった数名の者が王宮に、カフェ=ティリタイの手配が間違いではないのかとの確認に来たそうです。彼らには、手配が間違いではない事と、もしカフェ=ティリタイが頼ってきた場合には必ず王宮に連絡するように、と伝えられたそうです」
次々と伝えられる報告には、喜ぶべき事もあれば対応に困る事もある。時々質問を挟みながら、アーニャは全ての報告を聞き終えた。
「なるほどね……。やっぱりカフェ=ティリタイは、国内に潜伏している可能性が高いわね。協力者が居るはずだけど、目ぼしい有力者はもう調べられているだろうし……」
考えを整理するように、アーニャは呟いた。
侍女達も姫も、それぞれ思案顔で黙っている。誰も発言しないことを確認してから、アーニャは自分の考えを続けて述べた。
「認めたくない事だけど……、トルクォル内の有力者は、ほとんどがゴルと何らかの繋がりがあるわ。むしろゴルも私たちも知らないような誰かが、カフェ=ティリタイを匿っている可能性が高いと思うの……」
「……従者の男の子は、何者なの?」
姫が、初めて口を出した。アーニャは首を振りながら、その少年については何も分かっていないことを告げた。
「それが、分からないそうです。何年か前から、気付けばバド=ティリタイの側に居た少年らしいのですが……」
「トルクォルの国民ではないの?」
「それも、分かりません」
「そう……。手がかりは、やっぱり無いのね」
姫が言う通り、カフェ=ティリタイへと通じる手がかりは、探るほどに消えていく。可能性を絞り込めていると言えば聞こえは良いが、そのこと自体に意味は無い。
アーニャはカフェ=ティリタイを諦めて、もう一度カッパラへ他の使者を請うべきかもしれないと考え始めていた。
部下達も少ない人数で、多くの情報を集めてきてくれている。ただの侍女である部下達に、これ以上を望むのは、無理だった。
「他に、何かある?……無いなら、今日はここまでにしましょう。明日も続けてカフェ=ティリタイを探すことと、ゴルの動きを見逃さない事。……いいわね?」
アーニャがそう言うと、部下達はそれぞれ返事をして、姫の部屋から出て行った。
人ごみと暗がりを利用しながら、アリガンは兵に見咎められる事無く王宮の近くまで歩いた。
トルクォル王宮は城砦ではないため、構造として防備が厳しいわけではない。それでも、夜間は常に警備の兵が巡回を欠かさないため、気付かれずに王宮の奥深くまで忍び込むのは至難の業だった。
アリガンは王宮の近くの民家の外壁を伝って屋上へと上がると、その場で服装を濃緑色のものに着替え、ナイフ等の道具をそれぞれ身体に固定した。固定した後は、何度か飛び跳ねたり屈んだりして、それらの道具が邪魔にならないことを確認する。
街にはまだ人通りがちらほら見られ、普通の家庭では今頃は夕食の時間だろう。もっと夜が深まるまで、王宮の中の人間が眠りにつくまで、アリガンはこの屋上でじっと待つ事にした。
この位置から見える範囲では、警備の兵はある程度の規則性を持って巡回しているらしい。手持ちのランプを持っている兵と、壁のランプの光の範囲内でしか動かない兵が居る。
グランが用意してくれた図面を思い出しながら、姫の部屋と思しき場所を見ると、その場所は王宮内でも光の出入りが激しい。灯りの数も多く、闇に紛れて移動するのは難しそうだった。それでも一応はあの場所を目指して間違い無さそうだと考えて、アリガンはさらに時を過ごした。
数時間はその場に居ただろうか、目を閉じていたアリガンは周囲の音が無くなったことを確認すると立ち上がり、ゆっくりと壁を伝って屋上から下りた。街灯が作り出す光の輪の外を移動して王宮に近付く。
王宮の周囲は塀で囲まれているが、アリガンが全力で跳躍すれば塀の上辺に手が届く。助走無しに塀の上へと上がると、アリガンはそのまま塀の上を少し移動した。途中、二人の巡回の兵がすぐ足元を通り過ぎて行ったが、頭上のアリガンに気付いた様子は全く無い。
塀の中は庭になっていて、背の低い木が所々に植えられている。庭の先が王宮の建物になっているが、建物に近付くにつれて明るくなっているため、兵に発見される可能性も高まりそうだった。
塀の上から庭に下りたアリガンは木が作り出す影の中に身を潜めながら、周囲の様子を伺った。この場所にも、巡回の兵は来ている。しかし兵は立ち止まらずに歩いて行くばかりで、ここがあまり重要な場所ではないことがわかる。
アリガンは三人目の兵が去った後、明かりに身を晒すことを覚悟の上で木の影を抜け出し、するすると建物の外壁を登り始めた。窓や燭台を手がかりにして、アリガンはまたすぐに光の輪の外に出た。そのまま外壁を伝って王宮の屋根の上に出て、這うようにして姫の部屋を目指す。
案の定、屋根の上に対する警備は無いに等しい。
アリガンはそのまま、難無く姫の部屋の真上にまで移動することができた。
グランの図面では、この周辺の様子がよくわからなかったため、アリガンは慎重に周囲を観察して、発見された場合の逃げ方をいくつか考えた。
やがてアリガンはゆっくりと、外壁を伝って窓へと下り始めた。
部屋の灯りはランプが一本だけで薄暗い。
姫の部屋で、アーニャは眠れないという姫の話し相手を務めていた。
普段であれば、アーニャも姫もすでに眠っている時間だが、話を聞いているうちに姫の考えも整理されるだろう、そう思って、アーニャは静かに姫の言葉に耳を傾けていた。
「私はね、トルクォルが、もっと賑やかな国になれば良いと思ってるの。旅人が増えれば、文化も技術も流れ込んでくる。そうすれば国民も豊かになる……。あまり話せなかったけれど、お父様がそう言っているのを聞いたことがあって……。だから、私はトルクォルをそんな国にしたいの」
「はい」
「だから……。やっぱりゴルが王になるのは……。避けたいの」
「はい」
「……わがままだと思う?」
「いいえ。……思いません」
アーニャは優しく微笑みながら、ゆっくりと首を振った。
姫とこんな話をしたのは、初めてかもしれない。これからは、たまにこういった時間を作ろう。そう考えながら、アーニャは静かに姫を見守った。
「私にはまだ、わからない事が多すぎて……。だから、アーニャ。私が何か間違ってしまった時、あなたが私を止めて」
「もちろんです。……人は、自分が未熟である事を認められるようになった時、大人になるのだそうですよ」
「……うん。私、頑張るよ」
「はい」
アーニャとしても、もう少し早く、姫がこのように考えられるようになっていれば、と思わないわけではなかった。そうであれば、今頃はゴルに対抗する手段ももっと増えていたはずだ。そのように考えてしまう自分を、心の中で恥じながら、それでもアーニャは満足だった。
「さ……。今日はもう、お休みになってください。ずいぶん話し込んでしまいました」
そう言って、アーニャ自身も立ち上がった。姫も多くの事を話し終えて満足したのか、素直にアーニャに従った。
部屋の中は静まり返っている。
小さなランプの薄明かりの中、アーニャは姫をベッドに促した。だが。
「姫様……。こちらへ……」
急に険しい顔になって、アーニャは小声で姫を部屋の入り口近くへと誘導した。
アーニャの急激な変化に戸惑いながらも、姫はおとなしくそれに従う。
何事か、と目線で問いかけてくる姫の耳元に口を寄せ、アーニャは小さく、
「窓の外に、誰かが」
と囁いた。
王宮では夜の間、窓は木製の戸で閉ざされていて、朝になるまでは一筋の光すら入り込まないようになっている。物音も、していない。それでもアーニャは、外に居る誰かの気配をしっかりと感じ取っていた。
その何者かの存在を示すように、閉じられた木戸が、小さく音を立てた。
軽く二回、外側から誰かが叩いたような音。ほんの少しの間隔を空けて、同じように二回。
この音で、誰かが外に居ることが姫にも理解できたのだろう。どうすべきなのか、姫はアーニャの指示を待っているようだった。
「……危害を加えるつもりなら、あのようにノックをするのは妙です。……今から確認します。何かあればすぐに、部屋を出て兵を呼んでください……」
「今、呼ぶのは?」
「いけません……。窓の外の人物が敵だとわかるまでは、兵の関与は避けるべきです……」
もう一度、窓が鳴った。姫はアーニャに向けて頷いてみせ、アーニャは窓へと近付いた。
何度か窓を叩いてみたが、反応は無い。
中の人間が眠っている可能性もあったが、アリガンは部屋の中で誰かが動いたような気がした。すぐに逃げ出せるように身構えながら、少しだけ相手の反応を待ってみる事にする。すると、案の定中で誰かが起きていたらしく、木戸の内側から閂を外すような音が聞こえてくる。
アリガンは窓が開く前に壁を登り、姿を隠せる位置についた。
やがて、木戸が内側からゆっくりと開かれた。
アリガンも、木戸を開けた者も、お互いの様子は見えない。
アリガンは窓枠の上から部屋の中に見えるように手を振って自分の存在を示した後、顔を出して中を覗き込んだ。
そこには短剣を構えた女性が一人と、奥の方に少女が一人。
少女の顔には見覚えが無かったが、険しい顔でこちらを睨んでいる女性は、バドの家で扉を蹴破ってきたあの女性に間違い無い。
アリガンはそのままの姿勢で、女性に攻撃されないようにゆっくりと、自分の覆面を取った。女性はどうやら一度見ただけのアリガンの顔を覚えていたようで、どういう意味か、構えを崩さないまま頷いて、ゆっくりと二歩下がった。
アリガンはなるべく女性を刺激しないようにゆっくりと部屋の中に入って、両手を頭の上で広げた。
「カフェ=ティリタイ様の従者の、アリガンと申します」
ぎりぎり女性にだけは聞こえる程度の声で、最低限必要なことを伝えた。女性はその声に頷きはしたが、厳しい表情のまま、
「後ろを向いて、左手だけを使って、ゆっくりと、全ての武器を地面に置いてください」
と、これもアリガンがなんとか聞き取れる程度の声で言った。
アリガンは言われたままに後ろを向き、ゆっくりと全ての武器を外した。
「窓を、閉めてください。音を立てないように」
後ろから、女性がさっきと同じような声で言ってくる。アリガンは頷き、ゆっくりと窓を閉めた。
その間に女性がアリガンの武器を拾い上げたことが、音と気配でわかった。
「結構です。……どうぞ、こちらへ」
女性の声から刺々しさが消えたようだったが、アリガンは念のため手を上げたまま振り返った。
女性はまだ短剣を抜いてはいたが、構えは崩している。表情も、睨みつけるようなものから無表情へと変わっていた。
女性が指し示す先にはテーブルがあり、その上に置かれた小さなランプだけがこの部屋の光源のようだ。
「長居はしませんので、私は立ったままで結構です」
アリガンが小さく答えると、女性はあまり気にせず、そうですか、と言いながら短剣を鞘へと収めた。
女性は入り口付近で固まっている少女の近くへ行くと、その耳元へ何かを囁いたようだった。その言葉で少女は緊張を解いたようで、女性と共に椅子に座った。
「こちらは、姫様です。私は侍女長のアーニャ。ずっと、あなた方を探していました」
「我々もです。このままでは、国外へ出るのすら難しい。幸いお嬢様があなたの顔を覚えていたため、このように無礼な形で訪問する事になりました」
「手配の件については、申し訳無いと思っています。しかし今の私達には、事実上内政への関与はできないのです」
「では、どうすれば?トルクォルへ立ち入れなくなるのは、我々としても困ります。仮に国外へ出られたとして、それではトルクォル内の誰かにとって、お嬢様の命を狙う理由を残してしまいます」
ほんの少し、口調が強くなってしまった事に、アリガンは言ってから気付いた。
「……カフェ=ティリタイ様はご無事で?」
「はい、今は。匿ってくれる者が居ますが、その人物については一切お教えできません」
アリガンの言葉を聞いて、アーニャの表情が少しだけ厳しくなったように見える。しかし、グランの存在は王宮の人間には知られたくなかったし、教えたところでアーニャの今後の動き方が変わるとも思えない。
「カフェ=ティリタイ様がご無事であれば、結構でしょう。……それで、あなたがここに来た理由は?」
「……我々には、今のところ国内に味方と思える者がほとんど居ません。その中の一人があなたであり、また今回の件について一番詳しいのも、あなただと考えました」
「なるほど」
「まず、具体的に、我々を襲ったあの男は何者なのか。なぜ、襲ってくるのか。それからお聞かせください」
実際、アリガン達は今回の件について、ほとんど何もわかっていないと言える。アーニャは大きく頷いてから、説明を始めた。
「あの男は、ハドル。宰相のゴルの秘書官です。もっとも、あなたも見たとおり、単なる秘書官ではありません。ゴルがあなた方を狙う理由は、ゴルが次期の王の座を狙っているからです」
「それは、バド様から聞いてきました。しかし、我々を始末しただけで、その宰相が王位に就くことができるのですか?」
アリガンの質問に、一瞬、アーニャが顔をしかめた気がした。アーニャの隣の姫も、目を伏せてしまった。
「……そこが、一番の問題です。現状、国内の有力者はほぼ全員、ゴルが次期の王となることに対し、程度の差こそあれ、賛同しているようです。少なくとも、表立って反対意見を述べる者は居ません」
「では……」
「ですが、賛成している者の中にも、他の選択肢が提示されれば考え直すという者が多数おります。これは私の部下の侍女達が集めた噂でしかありませんが、信憑性は高いと考えています」
アーニャの態度はどこか、何かに縋ろうとしているようにも見える。アリガンはアーニャの話を聞きながら、頭の中で状況を整理した。
宰相が国政において、姫以上の実権を持っているのはむしろ当然だろう。経験も実力も、今は宰相の方が勝っているはずだ。そして、ハドルという秘書官の活動もそれを裏から支えていることだろう。だとすれば、この国の有力者達の態度は正しいものだと言えそうだ。
「では……、我々に何が出来ると?」
「カフェ=ティリタイ様とカッパラ王からの親書があれば、ゴルへの支持を撤回する者が多数現れるはずです。カッパラは無視できる規模の国ではありませんし、同じ通商路上に存在する、いわば同盟国ですから」
つまり、アーニャはカフェと親書を切り札として考えているらしい。これはアリガンにとっても悪い話ではない。少なくともアーニャは、カフェの身の安全を確保するために動いてくれるはずだ。
「なるほど。……では、宰相が手出しを出来ない場面でお嬢様を使者として有力者達に紹介することができれば、お嬢様が狙われる理由を消すことが出来ますね?」
アリガンの言葉に、アーニャはしっかりと頷いた。
「それが可能であれば、我々としても助かりますが……。そんなことが可能でしょうか?」
「わかりません。ですが、やらなければ困った事になります。……方法を、考えましょう」
いつの間にか、また眠ってしまっていたらしい。
目を覚ましても、地下室にはほとんど光が入り込まない。時間を確認するために、そして水を飲むためにカフェは階段を上がった。
階段の上からは薄暗い光が漏れてきているだけで、それは太陽の光ではない。漠然と、夜であるということだけはわかったが、階段の上には誰も居ない。火種を残しておくためだろう、ランプの中でごく小さな灯だけが燃えていた。
水を飲んで一息つくと、誰も居ないことが気になり始めた。
グランはともかく、アリガンが居ないのはおかしい。アリガンはカフェと一緒に手配されているはずで、カフェが眠るまではずっと家の中に居た。地下室の隅に居たのに気付かなかったのかと思ったが、確認してみてもやはりどこにも居なかった。
少しずつ、不安が募り、そしてそれはじわじわと恐怖に変わっていった。
アリガン一人なら、簡単に逃げられる。アリガンも手配されてはいるけれど、あくまで目標はカフェのはずだ。グランは何か、色々なことを知っているようだったし、アリガン一人を逃がすくらいは出来そうな気がした。
一方で、まさかアリガンが自分を捨てて行くわけが無いという気持ちもある。
様々なことが頭に浮かんで、どうしていいのか分からず、カフェは少し、泣きそうになった。
自分達が手配されたと知ってから、元気が出せない。頭ではわかっていても、行動がついてこない。
椅子に座ったまま、カフェは立ち上がることすら面倒だった。
そこへ、扉が開かれた。
扉が立てた音は小さなものだったが、周囲には他に音が無く、やけに大きく響く。
「おう、嬢ちゃん。起きたのか」
そう言いながら入ってきたグランは後ろ手に扉を閉めて、テーブルの上で弱々しい光を放つランプの火を大きくした。
そのままグランは水を飲みに行き、カップに注いで一気に飲み干すと、大きくひとつ、息を吐いた。
「泣いてんのか」
前置きも何も無く、グランがカフェに尋ねた。
グランは近くにあった椅子に適当に座って、カフェの顔を覗き込んでいる。
「いえ。……泣きそうでしたけど」
ひょっとしたら涙が出ていたのだろうかと思って、カフェは目を擦りながらそう言った。
グランはそれほど興味があったわけではないようで、そうかい、と言ったまま黙っている。
カフェはなんとなく居心地が悪く感じて、適当な話題を探した。
「あの……。アリガン、知りませんか?」
「あいつなら、王宮へ行ったぜ?」
「王宮へ?」
「姫の侍女に会いにな。味方っぽいのは今のところ、その女だけなんだろ?」
カフェの驚きを他所に、グランは軽く答える。
なんでそんなに大切な事を、アリガンは何も言わず勝手に決めてしまったのだろうか。
「あの、王宮へ行ったっていうのは、どういう意味ですか?私達は手配されてるのに?」
「ああ、忍び込んだ。道具とかは俺が用意した」
グランがあまりに自然に言うので、カフェは一瞬、言葉の意味が飲み込めなかった。
「忍び込んだ……、って、大丈夫なんですか、それ?」
「わからんが……。この国の王宮は別に警備が厳しいってわけでもない。大丈夫だと思うぞ」
なんとなく話がかみ合っていない気がしたが、どうやら冗談ではないらしい。
カフェは小さく、そうですか、と呟いて、そのまましばらく黙ってしまった。
グランはあまり興味無さそうに、椅子の上で伸びをしている。
グランは、アリガンのことが心配ではないのだろうか。それとも見た目通りに、無関心なだけだろうか。
考えることが多すぎて、カフェは大きく息を吐いた。
「アリガンは……。たまに、何を考えてるのかわからなくて……」
グランに言うというわけでもなく、カフェは話し始めていた。自分の考えをまとめながら、独り言のようにゆっくりと。
「放っておけばどこかに行ってしまうんじゃないかって、たまに思うんです」
「ふぅん?」
「今日だって、何も言わずに……。危ないかもしれないのに……」
「譲ちゃんに心配かけたくないからって、言ってたぞ」
無意味に天井を見上げながら、グランが答える。
「そう思ってくれてるのは、わかるんです……。でも、言って欲しい。全部一人で抱え込まないで……。じゃないと、不安で……」
「嬢ちゃんはそれを、あいつに言った事、あるか?」
俯いて、首を振る。
そんな事を言えば、アリガンは困った顔をして、そのあと苦笑して、ごまかしてしまう気がする。カフェはずっと、それが怖かった。
「なら、あいつが気付くわけ、無いわな」
突き放すように、グランが言った。その言葉に、カフェはたった一つの反論も思いつかない。
グランの言う通りだと、カフェは心から思った。
「……そう、ですね」
「言い方がキツかったなら、謝る。でもな……。あいつがどういう奴か、今じゃあんたの方が知ってるだろ。あいつは、ああいう奴だ」
「……はい。いいえ、大丈夫です。はい……。そうですよね」
自分の言葉が変な事に言ってから気が付いて、自分は何を言っているのだろうと、カフェは少し、可笑しくなった。
「ありがとうございます。……少し、元気出ました」
「ああ、良かったな」
グランは興味無さそうに、二杯目の水を飲みに立った。
夜が明ける前に、アリガンはグランの家まで帰り着くことができた。
出発したときと違って、今は濃緑色の服だ。この服装で夜明けを迎えてしまうと、ある程度の人通りができるまでは目立ってしまって移動できなくなる。なるべくなら、カフェが目を覚ます前に帰りたいと考えていた。
周囲に気を配りつつ、扉をノックする。誰だ、というグランの声に、俺だ、と答えると、すぐに扉が開かれた。
「おかえり、アリガン」
しまった、と思いながらもアリガンは、ただいま帰りました、と律儀に返事を返した。
カフェは起きていた。
当然と言えば当然で、アリガンは昨日の夕方ごろから家を出ている。その間カフェがずっと寝ているとすれば、そちらの方が問題だ。それでも、覆面姿だけは見られたくないとアリガンは思っていた。
「おい、さっさと入れよ」
グランに促されて、アリガンは中に入った。覆面を取りながら、アリガンは何と言うべきか考える。
「座らないのか?」
扉を閉めたグランが、そう言って座った。アリガンは色々と諦めて、カフェの近くの椅子に座る事にした。
「王宮、行ったの?」
「はい」
「侍女の人に、会えた?」
「はい、それで、お話ししたい事が」
「何?」
「今日の……、つまり、次の夜、お嬢様が親書を持って王宮へ行けば、今回の件は片付きそうです」
「詳しく、話してくれる?」
カフェはどこか、変だった。笑顔が少し、戻っている。
自分が王宮へ忍び込んだことを知ると、カフェは怒るか泣くかするとアリガンは思っていた。グランが説明してくれたのだろうかとも考えたが、それにしても、お咎め無しというのは居心地が悪い。
釈然としないものを感じながらも、カフェに質問されるまま、アリガンは今夜アーニャと話し合ったことを伝えた。
「そう、わかった。じゃあ、今日は昼間に寝ておかなきゃね」
事の重大性を理解していないのか、カフェは普段通りの口調でそう言った。
アリガンはなんとなく拍子抜けして、
「……危険ですよ?」
と念を押した。
カフェは頷いて、でもね、と前置きしてから、ゆっくりと話し出した。
「何も知らされずに、ただ待っている事の方が、私は辛いの。……今日みたいに。だからアリガン、今度からは、ちゃんと、教えて。心配させて。お願いだから」
カフェは諭すように、そう言った。
その表情がどんな感情を表しているのか、アリガンにはわからない。それでも、その感情の中に一つ、寂しさがあることだけは、アリガンには感じられた。
「……はい」
短く、それでも真剣に答えたアリガンの言葉を聞いて、カフェはやっと、アリガンが見慣れた微笑を浮かべた。
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